Ⅴ:妻と子に捧げるレクイエム:武本昌三(武本富子夫・潔典父)
(四)
大韓航空機は予定時間より少し遅れて、午前零時過ぎにケネディ空港を離陸した。
私と由香利は、VIPルームからKALの社員に案内されて細い通路を通り、税関や出国手続きの列にも加わらないでいつの間にか機内に入り込んでいた。飛行機は私と由香利が席に着くのを待っていたかのように動き出したのである。
席は二階のファーストクラス。左側中ほどの窓際に由香利が、そしてその隣に私が座った。 私たちのほかには乗客は三人だけであった。アメリカ人らしい中年の男性が二人と、金髪の若い女性が一人。
飛行機がしばらく急上昇を続けて、それから左に旋回しはじめた時、機体が傾いてニューヨークの光の海が窓いっぱいに飛びこんできた。その中にひときわ高く、マンハッタンの摩天楼群が浮かび上がっている。
昼間のくすんで見える高層建築の輪郭も、暗黒の空を背景に光で縁どられると、きわめて幻想的だ。
「お父さん、やっぱりニューヨークの夜景はすばらしいね」
と、潔典が言っていたのを思い出す。
それはアンカレッジから飛んできて、八月五日にニューヨークに着いた時の彼の印象であった。ケネディ空港で迎えに出た私たちとほぼ一年ぶりに再会して、一家四人揃ってマサチューセッツへ向かう車の中で、潔典がぽつんと洩らしたのである。
そのことばには、諦めかけていたアメリカへまたやってくることができた潔典の感慨がにじみ出ているようであった。
一昨年九月十八日、成田からロサンゼルスへ向かった時、私は一人であった。その時いっしょに行くはずであった富子は、その直前に母親の胃ガンがわかって、看病のため日本に残ることになってしまった。
七十六歳の母親には知らせていなかったが、医者からは年を越すのはむずかしい、といわれていた。
富子は、私がアメリカへ出発したあと東京郊外の多摩の自宅に潔典と住みながら、母親が入院していた荻窪の病院まで往復三時間以上もかかるところを、ほとんど毎日通いはじめた。 実家の兄嫁と必ずしもうまくいっていなかった母親に同情して、あと三、四か月の命と考えていた富子は、体力と気力のすべてを注ぎこんで、執念の看病ぶりであったらしい。 母親は持ちこたえて年を越した。そして一月中も持ちこたえて二月九日に亡くなった。葬式の時には富子も潔典も、ぽろぽろ涙をこぼして泣いていたという。
九月中旬以来約五か月、毎日のように病院へ出かけて看病に努め、最後の何週間かは病室の中に泊りこんでいたらしい富子は、母親の死の悲しみと看病の無理がこたえて、今度は自分が病床に臥した。その結果、三月はじめに予定されていたアメリカへの出発も諦めざるをえない、と伝えてきたのである。
私は狼狽した。予想外の事態であった。
あのアリゾナの乾いた砂漠の中の町で、苛酷な風土と干澗びた人間関係に耐えながら待ちわびていた家族再会の夢が、あっけなく消え去ろうとしている。
潔典はしかも、東京外大のクラスメートを一人いっしょに連れてくる約束をしていた。制度の違いで、その時私のいたアリゾナ大学では三月中も授業は休みではない。全米有数の言語学教授も何人かいて、私はそのような教授の一人に、潔典と友人が聴講することの了解もとりつけていた。
「もし、ママが無理だったら、お前だけでも友だちといっしょに来たらどうか。単なるアメリカ旅行ではない。お前のこれからの勉強にとっても、これは大切な経験になるはずだから」
と、私は潔典を何とか説得しようとした。
私が一九八二年に照準を合わせてフルブライト上級研究員の試験に応募したのは、その年に上智短大を卒業する由香利の留学と、潔具のアメリカの大学での聴講を考えたからにほかならない。
潔典は豊かな才能に恵まれ、語学力では、私が今まで接してきたいろいろな大学の数多くの学生たちに比べても、おそらく最優秀であった。父親である私は、他人の才能に対してあまり持ったことのないコンプレックスを、わが子に対して持っていた。英語でも英語学でも私はやがてこの子に追い越されるであろうと明確に意識していたが、それが私の楽しみであり、生き甲斐であった。それだけに、一か月のアリゾナ大学での聴講をお膳立てするのにも、 私は全神経を集中していたのである。
私は何度か電話をかけ、是非アリゾナへ来るように言った。それに対して潔典は、
「夏休みに行くことにしたいんだけど・・・・・・」
といかにも辛そうな声で答えた。
父親の言うことは正しい、といつも私を信じてくれて、明るく素直に従ってきた潔典である。このようなことははじめてであった。母親がすすめても気持は変らなかった。
私も必死であった。
「夏休みはダメだ。お父さんは日本に帰るかもしれないし、また残るにしても、どこの大学へ行くかわからない。引越しのために住所さえ決まっていないかもしれない、春休みを逃したらチャンスはない・・・・・・」
しかし、とうとう潔典は来なかった。
人の世で一番大切なのは「優しさ」だと言っていた子である。彼の「優しさ」はあの時どうしても母親を一人にしておくことができなかったのであろう。母親がアメリカが好きで、 誰よりももう一度アメリカへ行きたがっていることを知っていただけに、なおさらであったのかもしれない。
私は深い失望感からしばらくは抜け出せなかった。
私と由香利のアメリカ生活は、一転して、楽しみのない忙しいものになってしまった。手続中であったフルブライトの延長は取り下げて、夏になったら日本へ帰ろうかと思ったりもした。一時は本当にその気になって、荷物も一部、日本へ送り返したぐらいである。
それがとにかく、あのようなニューヨークでの再会ということになった。
ニューヨークは、富子と潔典にとってはじめてではない。しかし、あの時のニューヨークの夜景は、苦しい出来事のあとであっただけにとりわけ潔典にとって感慨深いものであっただろう。だからそれは、ことさら美しく輝いて見えたのかもしれない。
その同じ夜景に、つい二日前のKAL機の潔典は、またじっと見入っていたはずである。 ○○七便の座席は、ニューヨークからの電話の時に、窓際がとれたとは聞いていたが、その後のKAL側の資料で、潔典が32A、富子が32Bであったことがわかっている。左側のちょうど真中辺である。
潔典はこの夜景を見ながら、いったいどんな思いでアメリカを去っていったのか。
あの澄み切った潔典の眼も、この壮大な光の映像を最後に網膜に焼き付けたまま、どこかで消滅してしまったとはどうしても信じられない。しかしそれでは、私と由香利はなぜ今頃こんな所でこんな飛行機に乗っていなければならないのか―。
光の海が端から涙で滲みはじめて、私は力なく視線を戻して眼を閉じた。
由香利は窓の外を見ようともしないで、眼を閉じたまま先ほどから身動き一つしないでいる。VIPルームでもそうであったように、飛行機に乗ってもただ黙って、じっと悲しみに耐えているほかはなかった。
飛行機が平行飛行に移ってから間もなく、夜食が運ばれてきた。
二人の韓国人スチュワーデスがていねいな英語で話しかけてきて、何かと私と由香利の面倒をみようとする。おそらく私たちがあの○○七便搭乗者の家族であり、悲報を聞いて日本へ帰る途中であることを知らされていたのであろう。しかし、それとわかる彼女たちのこまかい心遣いも、私にはただ辛いだけであった。
由香利は食事にはほとんど手をつけなかった。考えてみれば、その日一日、ほとんど食事らしい食事はしていないのに、私にもまるで空腹感がない。
私は食事よりも、とにかく眠らなければと考えた。このまま飛び続けて、朝になって日本に着けば、混乱の渦の中に巻きこまれることは目に見えている。日本に帰ったとたんに家族の前で倒れるようなことになってはならないのだ。
私はほとんど無理やりにウイスキーの水割りを次から次へと飲み続けた。
バックグラウンドミュージックで“アリランの歌”が聞こえる。その切々としたメロディ ―は、その時の私にはむせび泣きのようにひびいた。
KAL機は“アリランの歌”とともに一路アンカレッジへ向かって飛び続ける。北米大陸を斜めに横断中のはずのこの飛行機の下には、アメリカが、そしてカナダが、闇に包まれて深い眠りの中にある。
私もやがて、いつのまにか、うとうとと、事故発生以来はじめての眠りに落ちこんでいった。
どれくらい経ったのであろうか。スチュワーデスの呼びかける声でうっすらと目を開けた。
「アンカレッジに着陸するので椅子の背を元に戻して下さい」と言っている。
はっとした。
(そうだ、今、日本へ帰る途中なのだ。富子と潔具の乗ったKAL機が行方不明で、あるいは空中爆発かもしれず、先ほどのニューヨークでは「撃墜」ということばも聞いてしまった)
私は一度に冷水を浴びせられたように、たちまち冷厳な現実の世界に引戻された。
ゆっくりと体を起こす。椅子の背を直す。ほんの一時遠ざかっていた悲しみと苦しみが、 じわじわと私を包みこんでいく。私のこころは、また鉛のように重くなった。
由香利は先ほどから起きていたらしく、椅子の背を立てたままじっと窓の外を見ている。
「由香利、眠れなかったの?」
平静を装って私は聞いた。
「うん、でもさっき少し眠ったから大丈夫」
それだけぽつんと言うと、あとは口を閉ざした。私も黙って前の椅子の背を見る。
そうだ、アンカレッジには想い出があった。口を開けば悲しみが送り出る。私と由香利にとって、このアンカレッジは一九七五年一月以来二度目なのだ。
あの時も真夜中であった。
私は文部省在外研究員として、一年間をオレゴン州で過し、夏休みには車でアメリカを一まわりし、ヨーロッパにも足をのばした。どこへ行くのにも親子四人いっしょであった。一九七四年のクリスマスを最後の想い出に、私たちはシアトルからサンフランシスコへ飛び、 そこからアンカレッジ経由で帰国したのである。
一月の真夜中のアンカレッジは、凍りつくように寒かった。しかし今では、あの時の情景が何となつかしく、また、あたたかく思い出せることか。眠い目をこすりながら、空港内の売店で使い残りのドルで買った想い出の品々は、今も残っているはずだ。富子が買ったエスキモーの子供の人形、潔典がえらんだアザラシの毛皮の小さな一片………………。
やがて「ガタン」と車輪が地に着く軽い衝動が伝わって、飛行機は滑走路に降り、減速しながら走り出した。
周囲の暗闇の中で、空港施設だけが明るく輝いて浮かび上がっている。
駐機場に飛行機が完全に停止すると、前方側のドアが開いた。
「ミスター・タケモト、ミスター・タケモト」
と呼ぶ声がする。
私と由香利は、スチュワーデスに先導されてゆっくりと下へ降りて行った。KALの社員が出迎えに来ていた。
「あなたがミスター・タケモトですか?」
やがて「ガタン」と車輪が地に着く軽い衝動が伝わって、飛行機は滑走路に降り、減速しながら走り出した。
周囲の暗闇の中で、空港施設だけが明るく輝いて浮かび上がっている。
駐機場に飛行機が完全に停止すると、前方側のドアが開いた。
「ミスター・タケモト、ミスター・タケモト」
と呼ぶ声がする。
私と由香利は、スチュワーデスに先導されてゆっくりと下へ降りて行った。KALの社員が出迎えに来ていた。
「あなたがミスター・タケモトですか?」
「そうです、これは娘です」
KALの社員は私と娘に向かって一礼して、自分はKAL支店の次長であることを述べたあと、続けて言った。
「ニューヨークの支店から連絡があってお迎えに上がりました。お休みになれる部屋を用意してありますので、ご案内いたします」
私はそこではじめて、ドアの近くに集まっていた乗客の物見高い視線を背中に感じながら、 重い足を引きずるようにして、由香利といっしょに次長の後に続いた。
空港の建物は九年前とはすっかり変ってしまっている。広くピカピカに磨き上げられた通路、名店街を思わせるような売店の群。一まわりも二まわりも大きく立派になっていた。
私と由香利はVIPルームに案内された。
部屋に入ると次長は改まった態度で、大韓航空機が事故を起こしたことについて詫びた。そして、なぜあの飛行機が航路を外れたのか、どうしてもわからない、と言った。
(航路が外れた? どこか違う所へ飛んで行ったというのか?)
しかし私は黙って聞き続けた。
「・・・・・・あの飛行機には、INSという自動航法装置が三つもついていて、かりに一つが故障してもあとの二つで正確に飛んでいくことができます。二つが故障しても大丈夫でしょう。 レーダーもあるし、無線でも位置を確認しています。だから航路が外れたとは考えられないのです」
私と由香利はやはり黙って聞いているだけであった。あまり上手な英語ではないが、次長は一所懸命に誠意を顔にあらわして説明しようとしている。
あの○○七便が航路を外れたらしいことはここではじめて知った。それならばいろいろ聞かなければならない。富子と潔典の生死に関わる大問題なのだ。だが一方では、今はもうこれ以上は知りたくないというこころの葛藤が続く。問い質しても、その答えをまともに受けとめる気力がないのだ。
次長はさらにことばを継いだ。
「あの飛行機の機長は千といって、韓国でも最も優秀なパイロットの一人です。大統領の軍用機の機長を勤めたこともあるくらいで、あの人がミスを犯すとは思えません。私も未だに今度の事故のことは信じられないでいるのです・・・・・・」
そのまま沈黙が続いた。
広い部屋の中は、次長と私たち二人だけである。黙っていると重苦しさだけが加わって私たちを圧迫していく。
私は話題を変えるつもりでやっと口を開いた。
「このアンカレッジもずい分変りましたね」
「ええ、すっかり変りました」
次長はちょっと救われたように語りはじめた。
「アラスカは石油が安いものですから、ここで給油するとガソリン代が浮くのです。それでここを経由して飛ぶ世界各国の飛行機が増え、施設も拡充されました。でも、これが何時まで続きますかね、アラスカの石油の価格が上がれば、アンカレッジに来る飛行機の数はぐんと減るかもしれませんよ・・・・・・。ところでミスター・タケモト、あなたが前にこのアンカレッジに来られたのは何時ですか?」
「もう九年前になります。一九七五年の一月でした。私はアメリカの大学で一年間、ヴィジティング・プロフェッサーをしていて日本に帰る途中だったのです。その時は、私たちは四人……」
私は、”at that time”と言ったあと “We were four” (私たちは四人)で声を詰らせてしまった。
また重い沈黙の時が流れた。
次長はやがて立ち上がり、「何か飲みものでも運ばせますから、どうぞごゆっくりなさって下さい」と言って、部屋から出て行った。
給油のための待ち時間は一時間くらいだったろうか。その間、KALの乗客たちは、それぞれに、売店や免税品売場で買物などを楽しんでいたようである。二日前のこの時間には、富子も潔典もきっとここで、しばらくはみやげものなどを見てまわっていたに違いない。その同じ場所を、いま辿るのは辛い。私と由香利はVIPルームに座ったままであった。
四、五十分経った頃、韓国軍の将官らしい人物が副官らしい軍人を伴って部屋に入って来た。続いてアメリカ軍の高級将校らしいのも二人入ってくる。それから民間人らしい男性が一人。みんなここからソウルへ行くのであろうか。
時間がきて、私と由香利は先にKAL社員に案内されて飛行機に向かった。
乗客はもうほとんど全員乗りこんでいて、売店が並んだあたりもがらんとしている。私は KAL社員にちょっと立ち止ってもらい、売店のあたりを一度だけぐるりとまわって機内に入った。
VIPルームにいた軍人たちも乗りこんできて、間もなくKAL機はアンカレッジの滑走路を離れた。空港の明りがみるみる遠ざかり、飛行機は漆黒の闇の中に吸いこまれるように上がっていく。
次はいよいよソウルだ。
飲みもののサービスが始まった時、私はまた、ウイスキーの水割りを何杯も無理やりにのどに流しこみ、酒の力で眠ろうとした。
私と由香利は、今度は前後になって席をとっていた。隣は空席だから、中間のアームレストを上にたたみこんでしまうと、少しきゅうくつだが何とか体を横にすることもできる。 私は由香利にも眠るように言い、スチュワーデスから毛布と枕をもらって明りを消し、横になった。
もし、この時の私がいまの私であったとしたら、未だに半病人の状態であるにしても、無理にでも頼んでコックピットに入れて貰っていたであろう。そしていろいろと聞いてみようとするであろう。
まず、アンカレッジからべセルまでのJ五〇一と呼ばれる内陸ルートでは、○○七便は他のKAL機と同様、VOR(全方位超短波無線)航法モードで飛行していたと思われるが、その場合パイロットは、VORによる位置とINS(慣性航法システム)による位置を常にクロスチェックするのが普通である。
私はそれを、どのように行っているか自分の眼で確かめたいと思うであろう。
○○七便の場合も、このクロスチェックをしていれば、INSが正常に作動していたかどうかは、すぐわかったはずであった。
○○七便は、ベセルですでに、「右にややコースがずれていた」ことをアメリカ側も認めているが、ここから洋上飛行に移ると、問題のINSモードに切り換えられる。
私は三台のINSのキーボードを詳細に眺めながら、機長、副操縦士、航空機関士の三人に次々に質問をくり返すだろう。そしてその結果、「アンカレッジの座標を現在位置として INSに入力する際、一〇度の経度エラーを起こした」というICAO(国際民間航空機関) 報告書が指摘する可能性の一つが、まったく説得力に欠けるものであることを再認識することになるだろう。
西経一四九度を一三九度と打ち間違えるためには、二桁目の④を③と打たなければならないが、キーボード上の④と③は隣り合わせにはなっておらず両端に離れている。構造的にもこの打ち間違いは、ほとんど起こりようがないのである。
やがて飛行機は航路上のニーバ地点に接近し、米軍のシェミャレーダーの捕捉範囲に入る。そこで私の乗っているKAL機のパイロットは、必ず、シエミヤのVORで位置確認を行うはずである。
ここでこれを確認しないでそのまま飛び続けることは、あるKAL機の機長によれば「何百万分の一の可能性もない」という。私自身が大韓航空の社長や機長たちを前にして、大勢の中で直接質問をした時にも、「○○七便はここでVORにより位置を確認したはずだ」と、社長も機長も答えた。
だから私は、○○七便が位置を「確認」しながら、それでも航路を逸脱してカムチャツカ半島に突込んでいく「ミステリー」を、「あなたはどう思うか」と、私の乗っているKAL 機の機長にも尋ねるかもしれない。
また、もしこのような航路逸脱をすれば、気象レーダー正面に、まず無数の多くの島があらわれ、やがてカムチャッカ半島の陸影が飛行方向前面から迫ってくることになってしまう。
正常コースを飛んでいる場合には、島影はレーダーの右端にあらわれるはずで、それをバイロットは何度も確認しながら飛んでいくという。それを私もこの眼で見せてもらいながら、 それなのに一体なぜ、カムチャツカを横断し、さらにサハリンまでも横断するということが起こりうるのか、という疑念をどうしても抑えることができなくなるであろう。「ミステリ―だ」という答えしか返ってこないことがわかっていても、それでも私の乗っているKAL機の機長にあらためて聞いてみないではおれないことになるかもしれない。
レーダーさえ見ていなかった、というのは○○七便の場合、きちんきちんと気象データを送っているのであるから、その可能性は排除される。この点も念のために大韓航空の社長の前で、同席の機長に私が質問したが、レーダーにより地上の地形を確認する回数は「無数である」ということであった。
こういう調子で、アンカレッジからソウルまでの飛行は、もしいまの私が乗っていたとしたら、あまりに不自然な○○七便の「ミステリー」の連続で、それらを一つ一つコックピット内であらためて質問することでさえ、多分、苦痛に耐えられなくなってしまうであろう。 信じられないような「ミステリー」がこれだけ念入りに連続して起こったとすると、 と、それはもう「ミステリー」でも何でもなくなってしまう。そう大声で叫びたい衝動にかられてしまうのではないであろうか―。
しかしその時の私には、大韓航空機事故の情報は、ローリーのテレビで何度も聞いた「行方不明」とケネディ空港で耳にはさんだ「撃墜」でぷつんと跡絶えていた。アンカレッジで聞いた「航路の外れ」も「撃墜」と結びつけて考えてみようとはしていなかった。
きわめて悲観的な状況であることはわかっていても、なお生存の可能性に「櫻の望みをかけていて、断片的な情報をその可能性を否定するような連鎖で結びつけることは、無意識のうちに拒否しようとしていたといってよい。
私はかけがえのない自分の妻と子の生死に関する重大な情報について、その時は「無知」のまま横になっていた。ウイスキーの水割りでしたたかに酔って、「無知」であったからこそ、ナビーを通りニーバを通りニッビも素通りして、その時はともかくも生き延びていたのである。
泥酔して、私が悲しみから離れた「無知」の世界に一時逃避している間、KAL後は一路、 ソウルへ向かって飛び続けた。
(五)
ソウルに着いた時には、すでに夜は明けていた。早朝で六時頃であったろうか、時間のことはどうもよく覚えていない。
私はまだかなり酔っていた。それまで酔いつぶれたことは一度もないが、この時はそれに近い状態であったといえるかもしれない。
後ろから由香利に起こされた時には、飛行機はもう着陸態勢に入っていた。のろのろと身仕度を整えていると、
「お父さん、だめじゃないの、肝心の時に酔っぱらったりして」
と、由香利に小さな声でたしなめられた。
由香利は母親に似てきちょうめんである。疲労で青白い顔をしているが、きちんと身なりを整えて真直に座っている。私のように酒で感覚を麻痺させることもできずに、さぞ辛かったことであろう。
飛行機が駐機場に入ってドアが開けられると、ここでも私たちはKAL社員に出迎えられた。二人の若い社員にはさまれるようにして、私はふらふらとついていく。由香利も黙って後に続いた。
私は酔った勢いでKALの社員に何か語りかけたような気がするが、何を話したのかまったく記憶にはない。ソウルに着いたら事件の新しい情報が得られるはずだと思っていたことも、その時は忘れていた。
私と由香利は、あまり人のいない待合室の一角に案内された。まわりに硝子の衝立が立ててあって、中にはソファーが三つ四つ置かれているだけである。
二人のKAL社員は、ここでちょっとお待ち下さい、と言ったまま出ていってしまった。 それからまた、どこか別の部屋へ行ったのかどうかも覚えていない。
私はソファーの背にもたれかかって、半ば眠っていた。
KALの社員がいない間に、どこで嗅ぎつけたのか、新聞記者らしい男が一人無断で入ってきた。
私に「あなたは○○七便搭乗者の家族か」と英語で聞いてきた。
(そうだ、私はあの飛行機の搭乗者の家族だ。妻と子が同時に事故にまきこまれて、悲しさのあまりこうして酔いつぶれている)
私はこころの中で、自分自身に答えていた。口に出して返事はしなかった。
私が目をつむったまま黙っているのを見て、その男は、今度は由香利に質問を向けた。
「○○七便には誰が乗っていたのか?」
「母と弟」
「アメリカのどこから来たのか?」
「ノース・カロライナ」
「お父さんは商社マンか?」
「ノー、ヴィジティング・プロフェッサー」
由香利は不機嫌そうに、ぶっきらぼうな答え方をしている。
新聞記者らしい男は、なおもしつこく聞き続けた。
「事件のことは何で知ったか?」
「テレビのニュースで」
「その時どんな気持であったか?」
「………」
由香利もとうとう口を噤んでしまった。
その男は、由香利があまり英語が聞きとれないのかもしれないと思ったらしい。今度は同じ質問をゆっくりと言い直した。
由香利は黙りこくっている。
私ははじめて口を開いた。
「疲れている。どうか私たちだけにしておいてほしい」
その男はそれでもまた何か問いかけてきたが、私たちが答えようとしないのを見て、やがてあきらめ、立ち去っていった。
私はそれから、座ったまま眠ってしまったらしい。その後のことは何も覚えていない。気がついた時には、またKAL機の中に座っていた。一階の前方左側である。
ソウルー成田間は、乗客もかなり多いようで、ファースト・クラスの私たちのまわりにも、空席はあまり目立たなかった。
やがてスチュワーデスが新聞を配りはじめた。
ソウルからは、日本人スチュワーデスも一人乗ってきて、そのスチュワーデスは私の横まで来ると、英語と韓国語の新聞を三、四種類差出しながら、
「新聞はいかがですか」
と、日本語で言った。
ふと見ると、どの新聞にも一面にでかでかと、KAL機事故関連の記事らしいものが写真入りで載っている。
私は、「コリアン・タイムズ」という名であったか、英字新聞一部と、韓国語は読めないが韓国語の新聞も一部受取った。そしてその瞬間から酔いも一度に吹き飛び、絶望のどん底へ情容赦なく叩きつけられてしまった。
私は英字新聞で、KAL○○七便が九月一日未明、航路を逸脱してソ連の領空を侵犯し、サハリンを横断した直後にソ連戦闘機のミサイルにより撃墜された事実を、はじめて知った。
(こともあろうにミサイルで撃つとは! あまりにもひど過ぎるではないか)
私はしばらく呆然としていた。ミサイルではひとたまりもない。木端微塵になってしまったにちがいない。一縷の望みも断たれてしまったのである。
私はもう、それ以上は読み続けることが出来なくなり、新聞をかたわらへ押しやってしまった。
ローリーの空港で別れた時の、富子のほほえみが目に浮かぶ。
彼女は、これからニューヨークへ行ってKAL機に乗ることに、そしてKAL機に乗りさえすれば翌日成田に着くことに、毛ほどの不安も感じていなかったであろう。
帰国する日の翌日、九月二日の午後一時には、新宿小田急内の歯科医に治療の予約がしてあった。
歯の治療中にアメリカへ行くことになって、一か月くらいはもつように応急手当をしてもらったのだが、マサチューセッツに着いた時には右頬が腫れ上がって、アマーストの歯医者へ行く羽目になった。
急の出発で保険もかけていなかった。しかし私が付き添って無事に治療もすみ、やがて痛みと腫れもひきはじめてほっとしていた。
悪かったのは歯ばかりではなかった。整腸剤も飲んでいたし、腎臓も要注意。帰国したら胸の検査も受けなければならないと言っていた。だから当初の予定のように、潔典だけを一人帰らせ、自分はアメリカに残って、私や由香利と暮すということができなかったのである。
富子はアメリカが好きであった。
他人にはあまり干渉しないあのアメリカ人の独立独歩の精神、雑草のようなたくましい生活力、合理的なものの考え方が支配する社会と家庭……………。
おそらく、かつてのオレゴンでの楽しかった想い出が裏打ちされているからであろう。私や由香利が、アメリカやアメリカ人の欠点を挙げると、むきになって反論したりもした。
昔と違って、由香利も潔典も自由に英語が話せるようになったのに、自分だけ取り残されてはならないと、ひそかに英会話なども勉強していたらしい。一時は毎朝、テレビのスペイン語を聞いていて、スペイン語の本やカセットも残っている。
私と富子の間では、海外生活は三度することに合意のようなものができていた。
一度目は昭和四十八年暮からのオレゴンで、二度目は今度。三度目は私が定年退職してから。それに潔典も、おそらくそのうちアメリカ留学するようになるであろうから、その時にも会いに行くようになるかもしれない。
アメリカとは、だから、富子にとっては、外国といっても割合気軽に行ける身近な感じの国であった。
しかし、予想外の母親の胃ガンで夏の出発を遅らせ、今度は看病疲れと葬儀後の後仕末で春にも渡米出来なくなったことは、彼女にとっても辛かったであろう。それだけに、潔典と同様、もう諦めていた二度目のアメリカ行が八月五日に実現した時には、富子もうれしかったようである。
健康はまだすっかり恢復してはいなかったはずなのに、写真に残された表情はみな明るい。異常高温のアメリカ東海岸一帯を、マサチューセッツからノース・カロライナまで広範囲に車で走りまわっている間も、彼女はうきうきしていて、私もしばしば、彼女の健康状態のことは忘れていたぐらいである。
日本へ帰る日、富子はスーツケースに友人、知人たちへの小さなおみやげを沢山つめこんでいた。そしてローリーのスーパーマーケットで買った自分で使うつもりの調味料“ロリエ”だけは、台所に置いたまま持って帰るのを忘れた。
大学から帰ってきてそれを見つけた由香利が気にして、ニューヨークから電話がきた時、
「ママ、明日の朝すぐに航空便で送るから」
と言ったら、
「そうね、じゃあ、そうしてくれる?」
と富子は答えて、いったん電話を切りかけたが、急に慌てたように、
「あ、ゆかちゃん、ゆかちゃん、やはり送ってくれなくてもいいから、いいから」
と、言ったそうである。
しかし由香利は、翌朝、大学の前の郵便局からそのロリエをエア・メールで送った。それは富子のあとを追って、四、五日で東京に着き、富子はそれを受取って五日で東京に着き、富子はそれを受取って、娘の思いやりとアメリカの味を、あらためてかみしめることになるはずであった。
その富子がまだ日本には帰っていないという。
アンカレッジを発ったまま、ソウルにさえ着いていないという。
サハリン沖で、ソ連戦闘機のミサイルにより撃墜されてしまったという。
そして、ああ、潔典―。
あんないい子がいたであろうか、いや、いるであろうか。
いつも明るく、ほほえみと優しさをまわりにふりまいてきた。私にはもったいない子だ。
赤ん坊の時に、健康優良児として表彰されたことがあるが、誕生以来、この子は親にはよろこびを与えるだけで、今まで何一つ、心配らしい心配をかけたことがない。
富子は「潔典といっしょにいると、それだけで気が和む」とよく言っていた。東京外大の築田教授は、後に“楽しみを醸し出す人”という追悼文を寄せて下さることになるが、この子には、そういう性格が生れながらにそなわっていた。
中学から高校、高校から大学への進学でも、潔典は親に少しも心配をかけなかった。
高校の上級になって志望大学を決める時、彼は父親のように大学教授になって、英語を教えることを考えていたらしい。私は潔典に躊躇なく東京外大英米語学科をえらばせた。
「東大を受験させることはお考えにならないのですか」
と、クラス担任の先生が、進学懇談会に出た富子に言われたが、私は潔典のためには東京外大の方がいいと考えていた。
潔典は机にかじりついて勉強するタイプではない。実際私は、潔典が勉強に熱中している姿はあまり見たことがなかった。何かの用事で、二階の彼の部屋に入っていくと、彼はよく昼寝をしていた。
私は、東大受験でガツガツ勉強されたら、潔典の明るさが幾分でも損なわれるのではないかと考えた。そして、「東京外大には必ず入るから特別に勉強しなくともよい」と言った。 「お前がもし合格出来なかったら、それはお前が悪いのではなくて、東京外大のえらび方が悪いのだ」とまで言った。
入試のシーズンが近づいてきた頃、私の大学の助手の上田君が、
「英語では上智大学外国語学部の英語学科が最高ではないでしょうか。東大と両方かけて、 東大は入っても上智の英語学科は落ちるという受験生も、けっこういるようですよ」
と情報を伝えてくれた。
「東大に入っても上智は落ちる」というのは、もちろんその逆もあるわけだから、別にどうということはないのだが、潔典には、東京外大だけ受験して不必要なコンプレックスを持つことのないように、上智の英語学科も受けさせた。そして両方とも合格した。
日本の学校制度には少しいびつな特異性があって、一般に学生は、高校時代に大学受験のためのつめこみ勉強でエネルギーを使いはたし、肝心の大学に入ってからは怠けだすような傾向がある。マラソンと同じで、大切なのは出発点ではなくて、途中の過程と到達点であるが、このことはあまり考えようとはしない。
私は潔典には、東京外大では常に余裕をもって勉強し、大学院は東大にするように、と言っておいた。
私の友人に二、三人そういうコースをたどって大学教師をしている者がいるし、東京外大には修士コースまでしかないから、博士コースに進むには、まあ、そうせざるをえないようなところもあった。
潔典もそのつもりで、東京外大に入ってからは、よく本を読んでいたようである。成績は、 東京外大でもよかったはずである。
ただ、昨年二月の学年末試験の時には、祖母の病気見舞、死亡、葬儀、アメリカ行の中止など、心労とショックが続いて、今度だけは結果もよくなかったのではないか、とちょっと気にかかった。
しかし、あとで富子に聞いたところでは、専攻科目も、一般語学も、全部「優」であったそうである。
潔典の成績のことなどを私が聞いたのは、それがはじめてであったが、私はその時、「なかなかやるな」と、こころの中ではうれしかった。
九月一日に帰国したら、そろそろ、次の前期期末試験の準備で、それが終ったら、東大大学院への入試のことも考えはじめなければならない。そしてその合間に、ギターと、バドミントンと、コンペ。それにガール・フレンドとのデートも…….
深典は曇り一つない明るいこころで、二十一歳の青春を精いっぱいに生きながら、この鈍重な父親の眼から見ても、文字どおり、キラキラと輝いていたのである。
その潔典の笑顔がもう見られないというのか。
あの健康な、すらりとのびた百七十五センチの肢体が、母親とともにサハリン沖で消滅したというのか
ソ連空軍が、ミサイルで撃ってしまったというのか。
「なぜ?」
「いったい、どうして?」
悲しみのどん底にあって、何度も「なぜ?」「どうして?」をくりかえしているうちに、 むらむらと、抑えようのない激しい怒りがこみ上げてくる。
ソウルから成田への短い空の旅は、きわめて苦痛に満ちたものになった。
私や由香利のこころの中を知らぬげに、まわりの乗客はそれぞれ平和な顔をして、のんびりとくつろいでいる。
パーサーと笑いながら何やら長話している人、新聞や雑誌を読みながら煙草をふかしている人、椅子を倒してイヤホーンを耳にあてている人、朝食が終った後も、いつまでもワインか何かを飲んでいる人・・・・・・。
しかし、私だけは食事もとれずにただ黙ってこころの痛みをかみしめている。
本当は、大声で叫びたい、わめきちらしたい、泣き出したい。その衝動を懸命にこらえながら、辛うじて平静を装っていたのである。
その時の私には、まわりの乗客たちはみな、まったく別世界の、無縁の人々であった。
一年ぶりの日本が眼下に展開しはじめた。曲折の多い海岸線の白波、緑の濃い山々と深い谷、川の流れに沿って群集する家々のたたずまい・・・・・・。
なつかしいはずであるが、窓に顔を寄せて、見下ろす気持はおこらない。
由香利と二人だけの、何の楽しみもない帰国である。いや、楽しみどころか、待っているのは、富子と潔典のいないわが家と、地獄の苦しみだけだ。
機内が少しざわざわしてきた。
ハックグラウンドミュージックで、またあの“アリランの歌”が聞こえる。
やがてKAL機は、私と由香利の重いこころを乗せたまま、成田空港に向かって徐々に高度を下げていった。
帰国したその日から、私と由香利は帝国ホテルで暮した。
大韓航空機撃墜事件の犠牲となった日本人は二十七名。その家族のほとんどが、帝国ホテルに部屋を割り当てられて泊りこんでいた。
私と由香利も、マスコミの取材陣の中をくぐり抜けるようにして、成田空港からいったん、 東京駅付近のホテルへ行き、そこで家族たちと再会したあと、帝国ホテルへ連れていかれたのである。
犠牲者の家族のうちの何人かは、もう稚内へ飛んでチャーター船に乗りこみ、墜落現場に近い海域まで近づいていた。
この稚内行きは、その後も何日かグループに分かれて続いた。
事件の何らかの手がかりを掴みたい、遺品の一つ、髪の毛一本でも見つけたいと、みんな必死になっていた。
しかし、私と由香利は行かなかった。行けなかった。代りに、弟と妹が行った。
船の上から富子と潔典のために、花束や衣類などを投げ落した時、潔典のTシャツだけが、 ちょうど潔典があらわれてそれを着たかのように、水の中でピンとひろがり、彼にゆられてそのまましばらく浮んでいたという。
多摩の自宅へも行かなかった。行けなかった。
そこには、八月五日の早朝、富子と潔典がアメリカへ向かうために家を出た時の部屋の状態が、そのまま残っているはずであったが、それを私と由香利は、見るだけの力がなかった。
犠牲者の家族だけで話し合わなければならない問題がいろいろあって、そういう時だけは私は洋服を着て会議室のようなところへ出かけ、それ以外は、夜となく昼となく、寝巻姿のままベッドの上で横になっていた。
事件のことは極力思い出さないように努めた。思い出すと、慌てて別のことを考えて気を逸すようにする。富子と潔典がいないという苛酷な事実を真正面から全身で受けとめるためには、私も由香利も弱過ぎた。
辛かったのは電話である。
マスコミの取材が昼夜激しく続いていたから、ホテルのフロントでは、部屋番号も教えないようにしてくれていたらしいが、それでも、時々は何らかの口実で外部からかかってくる。
電話の中で富子と潔典の名を出されると、いくら逃避しようとしていても、否応なしに現実に直面しなければならない。
そういう時には、答えながら、きまって私は泣き出した。
慰めの手紙や電報が、ホテル宛にも沢山届いた。東京外大の築田教授からも、こころのこもったお見舞の手紙をいただいた。
潔典の父親として恥ずかしくないように、私もお礼を申し上げなければならない。しかし、 私はまだ、手紙を書くということができないでいた。せめて電話ででも、と思って私はダイヤルをまわした。
電話が通じた時、はじめに「私は潔典の父親でございます」と言おうとした。しかし、どうしても声が出なかった。
しばらくしてやっと、
「私は、潔典の・・・・・・」
と言っただけで、受話器を持ったまま泣き崩れてしまった。
築田教授は潔典の好きな先生であった。私は築田教授にまた電話しようとすれば、あれ以来十か月以上を経たいまでも、おそらく、あの時と同じ状態をくり返してしまうだろう。
合同慰霊祭が終り、富子と潔典の葬儀も、東京在住の私の友人たちの協力で、無我夢中のうちに終った。
家の宗教は、名ばかりの浄土真宗であるが、富子と潔典はキリスト教に惹かれていた。錯乱の中ではどうしてよいかもわからず、二人の法名も、いまだにつけられてはいない。
慟哭と苦悩の一か月をほとんど帝国ホテルだけで過ごして、私と由香利は再びアメリカのノース・カロライナへ戻った。
しかし、私はどうしても教壇に立つことができなかった。
重病人の胃が生理的に食物を受けつけないように、私の頭はテキストの活字を受けつけなかった。
由香利も授業を受けることが、どうしてもできなかった。
アメリカの忙しく充実した大学生活を何とかこころの支えにして、苦難を乗り切っていけるのではないか、と思っていたのは誤りであった。
私も由香利も、昼夜の区別なく、アパートのベッドに横になって眠り続けた。
眠っている間だけは、「私たちは四人」で、悲しみからも逃れることができる。
私たちにとっては危機の状態が続いた。
ここは外国である。しかもアリゾナから移ってきたばかりで、友人知人もあまりいない。 このまま起き上がれなくなってしまう前に、帰国しなければならない、と思った。
十一月の初旬に、私と由香利はまた日本へ帰った。
多摩の自宅で由香利と二人だけの正月を過ごしたあと、私は少しずつ、自分なりに事件について調べてみるようになった。
あれだけの大事件が、単なるパイロットのミスでひきおこされたものとは到底考えられない。
遺族たちの間にも、このまま泣き寝入りはできない、という気持がひろがっていた。
私たちは話し合って、毎月一日を「抗議の日」と定め、みんなで手分けして、まずソ連政府のアンドロボフに、抗議の手紙や電報を送りはじめた。
二月一日、私も、駐日ソ連大使・パブロフに次のように書いて送った。
ウラジミール・パブロフ
五か月前の今日、一九八三年九月一日の未明
私たちの家族は、お前たちにいったい何をしたというのか
ニューヨークからソウルへの民間航空機の乗客として
定められた料金を支払い
安全を疑わず、人間の善意を信じて
ただ静かに座っていただけではなかったか
まもなく日本で再会できるはずの
父の、母の、夫の、妻の、子の、兄弟姉妹の
それぞれになつかしい面影を夢の中で追いながら
夜明け前のひとときをやすらかにまどろんでいただけではなかったか
ウラジミール・パブロフ、それがお前たちには許しがたい謀略か
いきなりミサイルを発射しなければならぬほどの死に値する大罪か
それだけで私たちの家族もお前たちの敵になるのか
だから殺したのか
答えよ、ウラジミール・パブロフ
人間のことばで答えよ
あたたかい血が通い、理性と尊厳をそなえた人間のことばで
お前の政府にも答えるように伝えよ
一方、アメリカのこの事件に対する関わり合いも、少しずつではあるが、わかりかけてきていた。
事件発生当時、アメリカは○○七便の「ブラック・ボックス」の回収に躍起になり(あるいは躍起になっているふりをして)、あたかも、それが回収出来なかったが故に、「真相」 は究明できないかのような印象を与えようとした。
しかし、これはいまではほとんど周知の事実とさえ言えると思うが、あの「ブラック・ボックス」が「本当に」上がらなかったとしても、アメリカ情報組織は、少なくとも、KAL○○七便の航路逸脱の一部始終を熟知していたはずである。
私は、アメリカ大統領レーガンにも、真実を述べるよう、手紙を書きはじめた。
黒く巨大な、おどろおどろしたものに対しては蟷螂の斧であるかもしれない。
しかし私は、富子の夫であり、潔典の父である。
富子の夫として、これからも、明らかにすべきことは正義と人道のために明らかにし、潔典の父として、訴えていくべきことは世界の良心に訴えていこうとするであろう。
それが生き残った私の、死ぬこともできないでいる私の、せめてもの、妻と子に捧げるレクイエムである。
(一九八四・七・十七)
