Ⅴ:思い出:梶木恵子(田中ケイ子友人)

 私共が田中ケイ子さんとアメリカでごいっしょだったのは、ケイ子さんが文部省からの留学でいらした昭和五十七年四月初めから、私共が帰国した六月の末までのことでした。たった三ヶ月足らずの期間でしたが、学内に日本人が少ないということや、特に女性はケイ子さんと私だけだったため、毎日の様に行き来をさせていただきました。ケイ子さんのお蔭で、それまでの一年半、主人の留学生活のお供という形だった私のアメリカ生活が、本当に実り多く、思い出深いものになることができました。
 ケイ子さんは、その秋に催されるダンスパフォーマンスの準備に、朝早くから夜遅くまで、本当に食事を取る間も惜しいという風に、レッスンに励んでいらっしゃいました。私共は先に帰国したため、残念ながら拝見できませんでしたが、それは大成功に終わり、先生方にも絶賛されたと帰国後とても喜んで話して下さいました。
 その頃私共の娘がまだ二才十ヶ月位でしたが、とても可愛がっていただき、娘もケイ子さんが大好きで追いかけ回すという具合でした。よく娘の手をひいてキャンパスを散歩していると、向うから独特の、少し外股気味のいかにもダンスをしている人、といった美しい歩き方でサウナパンツ等に身をつつんだ彼女が、颯爽と来られると、「ヨウコー」と大きく手を振って下さり、陽子が大喜びで走り寄って行くと、陽子を抱きあげたり、時には子供の手をとって「ラーラ、ラーラ」なんて歌いながら踊ったりして下さったものでした。
 「今夜うちで夕ご飯食べない?」とお誘いすると、日本食料品店で買った切り干し大根を煮て来て下さったりもしました。それがとても美味しくて、「野菜がじゃがいもしかなかったからいっしょに煮てみたんだけど割といけるでしょ。」
 あれ以来、わが家では時々じゃがいも入りの切り干し大根を作ってケイ子さんをなつかしんでいます。
 一番心に残っているのは、私共が帰国する前夜のことです。レッスンに忙しい時間を割いて、他の仲間とレストランで送別会を開いて下さったのですが、帰りの駐車場で別れるとき、ケイ子さんが突然しゃがみ込んで、陽子にすがるという形で泣き出したのです。長身のケイ子さんが二才の子供にすがって泣いていて、陽子がその頭をなでなでしている姿は、後で思うといわば奇妙なものでしたが、私はその時初めて見る彼女の涙に胸がつまって何も言えませんでした。ケイ子さんとしては、まだアメリカ生活に十分慣れていらっしゃらなかったため、心細さがあってのことと思いますが、後で、「私はYOKOと別れるのが辛かったのですよ。あの子は本当に可愛い子です。」とお手紙を下さったのを覚えています。
 私共がケイ子さんと再会したのは事故の前、八月のことでした。玄関先に現われた彼女は、以前にも増して美しく、少し髪ものびて、女らしくなっていました。留学中の成果と自信が彼女をそうさせたのでしょう。眩しい程キラキラ輝いていました。
 本当にこれからのご活躍を期待されていた矢先の事故だけに、残念でなりません。彼女を思い出すときは、いつも踊っている姿と、あの最高に温かい笑顔です。きっと苦しいことや辛いことがあったでしょうが、人にはそれを決して見せず、いつも明るく、周りをも明るくして下さる人でした。あの温かくやさしいケイ子さんにもう会えないなんて、耐えられない気持ちです。この一年余り、ケイ子さんのことを思わない日はありませんでした。ご家族の皆様のご心痛はいかばかりかとお察し申し上げます。
 今、娘も五才になり、「ケイ子姉ちゃんはお星様になっちゃったの?」と聞きます。娘には「そうよ、そしてみんなをお空の上からやさしく見守ってて下さるのよ。」と言っていますが、私の気持ちとしては、今でもアメリカのどこかで一生懸命ダンスを踊っていらっしゃるんだ、と思うことにしています。
 憤りや悲しみの中で、今の私共に出来ることは、どうかケイ子さんの、そして犠牲になった方々の眠りが安らかでありますように、と祈ることのみなのです。     合掌

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