Ⅴ:「恩師、冨高八重子先生」:川合治代(富高八重子・生徒)

 五十八年、九月一日、私は職場で、冨高英語塾の先輩でテレビ大分の記者である岩尾氏からの電話を受けました。あの忌わしい一報以来、行方不明からサハリン不時着全員無事、喜びも束の間、空中分解・・・・・・撃墜・・・・・息詰まる様な刻一刻を、ただ只うれしい情報に戻ってくれることのみを念じて待った辛く長い時間。しかし、事態は最悪となってしまいました。今でも想い出すと信じたくなくて反射的に耳をふさいでしまいます。
 先生はお父様を亡くされてしばらくしてからは、毎年のようにアメリカへ夏期留学に行かれるようになりました。私が大学へ入学した年からは、東京の下宿先に電話で留守中のこまごまとした打ち合せをして、期日の関係上、私の大学が夏期休暇に入る少し前に出発していました。成田から再度、出発前に電話が入り、弾んだ声が快く響いてきました。その都度、 私も一緒に行きたい衝動にかられたものです。
 富高先生は、母と私にとって父を亡くしてからは、すべての面で相談できる数少ない大切な人でした。子供のいない先生は私のことを実の娘の様に可愛がって下さり、留学先でも、「私の娘が・・・・・・」とお友達に話して居られたそうです。一人っ子の私も、小学校三年生の時から高校卒業まで先生の教えを受けて、その明るいお人柄と英語にかける情熱と勉強熱心な態度に少なからず影響を受け、大学も英米文学科に学ぶことになりました。
 教室中に響く明るくリズミカルなお声。留学先から帰省するといつも子供の様にはしゃぎながら、一つ一つの想い出を大切そうに話して下さいました。そして幾日かたつと必ず、「お荷物が届いたの。」と言って皆にお土産を分けて下さいました。今度も当然あの楽しいひとときをもてるもの、と帰りを待っていた大勢の生徒達と私達。その日がもう永遠に訪れないなど誰が考えたでしょう。
 ご自身の英語に一段と磨きをかけ、深めてこよう、と意欲に燃えて毎回旅立たれました。 前回のハーバード大学からの留学土産に、先生は非常に優秀な生徒でありどこの大学でも講師として紹介できる、という証明書を持って帰られました。私達もそんな超一流の先生の教えを受ける事を誇りに思い、短期間に、かなりの高齢にもかかわらず、それだけの成果をあげられる先生を心から尊敬せずにはいられませんでした。
 そして今、私の手元には先生が申し送りとして最後に書かれたノートが一冊残されています。例えば中学生には「夏休みの間に筆記体ができるようにする」「中体連で抜けている人がいるので前の復習を時々する」とか、高校生には「大学に入ってどんなに英語が大事かという事を時々説明する様に」など等。そして最後のページに「九月一日(木) 帰国の予定、この日を休みにしてもよい。私が日曜日にふりかえ授業をする」とあるのです。先生は、私の記憶にある限り、御自分の都合で塾を休みにしたことはありませんでした。
 けれど一度は塾を閉鎖したことがありました。寝たきりのお父様をそれは大切に看護なさった事は、評判でした。先生は塾と看護と家事を一人でなさって、遂に御自分も身体をこわしてしまわれました。お二人が別々の病院へ入院された日の事をお手伝いに行った母から聞いたことを覚えています。気丈な先生はてきぱきと準備をして、お父様に付き添って入院手続きをされ、帰宅して今度は御自分が入院。そしてその日がお父様と先生との永遠の別れにつながる日でもあったのです。
 お一人暮し、どんなに寂しく心細かったことでしょう。いつも明るく多趣味で楽しそうにして居られたので、反対に愚痴を聞いて頂いたり頼ってばかりでした。先生、本当にごめんなさい。私が娘らしい事をしてあげたのは、はじめて頂いた給料日、夕食にご招待した事ぐらいですね。あの時の先生の嬉しそうなお顔、今も目のあたりに見えるようです。
 昨年九月一日の一周忌は、先生の御両親が納骨されているお寺、かつて先生と母と三人でお参りしたあのお寺の本堂で、大勢の先生のお友達と福田洋平君と私共だけで法要を営ませて頂きました。先生にふさわしい、厳粛で、立派な法事ができました。
 先生の大事な生徒たちも、あの当時はショックを隠しきれない様子でしたが、今は私のところで先生の教え子らしく、どんな悪天候の日にも休まず頑張っています。五十九年春には、受験生全員、志望高校・大学に合格致しました。
 安らかな御冥福を心からお祈り致します。

※本当を言うとね、先生!!! 私は先生の死を信じることができません。どんなに遅くなってもかまいません。 どうか帰って来て下さい。この事件の真相が明らかにされない限り、母と私は、先生のお帰りを待ち続けます。

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