Ⅲ:弟:竹村佳代子(大阪徳之実姉)
昭和五十八年九月一日、私はこの日を終生忘れる事が出来ないであろう。朝八時頃東京にいる義妹から悲壮な泣き声と共に、「義姉さん、どうしよう、徳之ちゃんの乗った飛行機が行方不明になった。」と電話があった。
始めは何の事やらわからなかった私も、事情を聞いていくうち、頭から血の気が引く程驚いた。
すぐ様テレビをつけ、ニュースが伝わる度に一喜一憂の思いで、家事も手につかず、いよいよというニュースを聞いた時は、涙がどっと頬に伝わり、「何かの間違いだ、そんなはずはない。」と何度も何度も打ち消し、とにかく京都にいる兄弟四人は新幹線の車中の人となったのである。
思えば、弟は私達兄弟五人の一番末で、すぐ上の私でさえ八才も年が開いていて、上の兄姉達とは年が違い過ぎるせいか、余り兄弟げんかの相手にならず、その反動で私とは良くやったものである。
弟の誕生したのは終戦一年前の五月、本当に日本の貧しい時代だった。母はずいぶん苦労して育てていたと思う。そんな親の事は幼かった私も余り覚えていないが、それ迄一番下であった私に弟が生れた事が兎に角嬉しく、お姉ちゃんになれるという思いだけで胸がふくらみ、 誕生した時は近所中走りまわって、「弟が生まれた弟が生まれた」と云ってまわっていた事を記憶している。
弟は小さい頃から、年上年下の区別なく誰からも好かれる子で、人の面倒を良く見て、それでいて少しも一つ所に落着かず、今何か手を動かしているかと思えばもう次の事を考え、 行動を起す様な子だった。冗談を云っては良く人を笑わせ、歌を愛し、人を愛し、いつも賑やかで楽しい弟、東京へ行ってからも夜中に「元気にしているか?」と一杯気嫌で電話して来て、病上りの私の身体を気遣い、声の便りをして来てくれたやさしい弟。
事故の一ヶ月前、甲子園で行われる巨人阪神戦を見にわざわざ東京からやって来て、大の阪神ファンの弟は形掛かまわず応援を心から楽しみ、その日の大勝利を無邪気に喜び、はしゃぎまわっていた。
そんな弟の姿は、もう二度と見る事は出来ません。
私のたった一人の弟、徳之ちゃん!!!
もう貴男の声も聞かれない。
貴男はあの鉛色した深くて冷たい北の海の何処へ行ってしまったのか、何の遺品も見つからないけれど。
貴男の魂は、きっと亡き父母と共に霊界から私達を見守ってくれている事でしょう。私も朝夕貴男の冥福を祈っています。そして二度とこの様な不幸な事件が起きない様に、犠牲者の皆様の御冥福と合せて心からお祈り申し上げます。
事件の一番大きな責任者である大韓航空機は、どうしてソビエトの領空を侵犯する様に大きく軌道をそれてしまったのか、それさえなければこの様な事件は起きなかっただろう。又ソビエトも非武装の民間機と知り乍らなぜ撃墜してしまったのか。とにかく双方に対し、許す事の出来ない憤りを感じる。
愛する者を失った者の悲しさと、まして一家の大黒柱を失った遺族の苦労を良く理解して頂きたい。
そして一日も早く遺族に対する誠意ある解決を願うと共に、日本政府もその事に努力を払って頂きたく切に希望する次第です。
