Ⅱ:冨高ヤヱ子の一生:青矢 繁(冨高ヤヱ子兄)

 私にとって只一人の妹ヤヱ子は、私より二十歳も年下でした。私の父は日露戦役に出征して、帰って間もなく死にました。母は再婚の話には耳を傾けず、私が学校を出て就職したのを見て再婚し、そしてヤヱ子が生れました。私は自分に妹が出来たことを喜んだものでした。 私の子供は叔母ちゃんとは呼ばず、ヤヱ子姉ちゃんと呼んでいました。ヤヱ子が女学校を出た頃は戦争が激しくなり、空襲も猛烈をきわめ、終に敗戦となりました。別府には米国の駐留軍が置かれました。ヤヱ子は終戦まで市役所に勤めて居ましたので、動員は免れました。 戦後女子専門学校英文科に入学しました。卒業後は家に居りまして、米軍キャンプに是非動めるように勧められましたが、本人は全くその気になりませんでした。然し強引に口説き落されました。何度か退職したのですが、その度に又無理に就職させられました。
 女学校の時から英語は好きだったようです。英語の先生を非常に尊敬していました。米軍が引上げて後、英語塾を開き指導に熱中しました。塾生は幅広く、小学生から大学生そして大人まででした。指導の熱中ぶりには聊か驚きました。身体は決して強い方では無かったのですが、米国へ短期留学と聞いた時は不安になりました。私は「思いきって決行するのも良いことだが、健康のことを考え、中止する勇気も必要だと思う。」と忠告した。医師も無理しないようにと注意してくれたが出発しました。この処毎年夏休みが近くなると、一、二箇月の短期留学を実行するのが例になりました。自分の留守中は、教え子の大学生にアルバイト料金を払って指導を続けていました。昨年が何度目の短期留学だったのか忘れました。私も病気療養の為千葉の娘の家に来て居りますので、娘夫婦と共に羽田で迎え成田で見送りました。ヤヱ子は一寸近所へ行くような気軽さで出掛けました。向うからの便りも至って暢気で、米国の友達に茶の湯を披露したり、謡曲を紹介したり、楽しい便りでした。ライシャワ―さんのお宅を訪問して歓迎されたことも書いてありました。アメリカでは日本の水墨画が非常に珍重されていると言って、私の描いた色紙を十数枚持って行きました。一度日本人形を持って行ったが、向うに着いた時、首と胴とが離れて居たと言って居りました。
 九月一日に帰ると便りがありましたので、娘夫婦はいつもの通り成田空港へ出掛けました。 車の中でラジオを聞いて驚きました。私は家でテレビを見て居りましたが強制着陸と聞いて胸を撫で下ろしたものの、其後のニュースで撃墜された可能性もあると聞いて全く驚きました。こんな時に可能性と言う言葉を使って表現してよいものだろうか、と今でも気になって居ます。一体人類は進歩しているのだろうか、と疑いたくなります。一歩でも平和の方向へ歩いてこそ進歩と言えるのではないでしょうか。「人の命は地球より重い」と言われています。又「人を殺せば死刑になるが、戦争で敵を殺せば勲章を貰う」とも言われています。現在人類はどちらを向いて歩いて居るのでしょうか。この度のような事件は世界の何処にも起ってはならぬと思います。

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