Ⅴ:思い出:飯野はまじ(田中ケイ子伯母)
陽の色・空の色・空のたたずまい。
総ての物がみんな秋の様な季節となりました。昨年九月一日泣くに泣かれぬ様な事故の人として巻込まれたケイ子、全くうそ、うそである様な気がして今だに信じられません。
朝食の後片付けをやりながらテレビを見て居りましたら、ニュースで飛行機が行方不明になったと、サハリンに不時着とか、まだはっきりとしない様な事を言っている。そのうちに日本人乗客の氏名が発表されました。
何げなく見ている中に、報告の中の最後から三人目に田中ケイ子とはっきり出ましたが、 まさかそんな事はと、同姓同名も数有る中ですからと思いながら実家に問い合せた所、ケイ子はアメリカに行って八月三十一日頃帰る予定になっていると聞かされましたので増々心配が深くなって参りましたが、テレビで知る事以外には何の手掛りも有りません。
丁度その頃ケイ子のお母様は中央病院のベットの上で腸閉そくの様子で、手術をするかどうかとてんやわんやの時でした。
三才の時に父を亡くし、母一人の手で育てられ、三人姉妹の真中です。でも幸にしてほんとうに明るい性格で、子供の頃から多くの人から好かれていました。私も、弟の亡き後は我が子同然に面倒をみてやって居りました。私の生家の裏表の様な所で生活をして居りましたので、毎日の生活もどんな様子か、ほんとうに父親代りの気持の私でした。小学校の通学路に私も家を建て、ケイ子達姉妹も学校から帰ってくれば、私宅にきてはマンガ本を好きで夕方迄見て遊んで行き、又中学校も私の裏に有りますので、遊びにきては、「おばちゃーん、お母さんが、『ケイ子通信表を5ばかりとってくれば、ケイ子の好きな物をなんでも買ってやる』だって」と私に話した事も思い出話しです。結局オール5ばかりの成績で、ミノルタのハイマチックカメラを買って貰って喜んだものです。父は亡くてもお母さんはほんとうに子供思いで、余り泣かせる様な事もなく、三人姉妹も仲良く、すなおに育てた事もケイ子の成長に結ばれている事と思います。
でも三十五才になる迄自分の努力であれこれと苦労して来た事を考えると、ほんとうに可哀相な子だったと思います。八王子のマンションも丁度一年余もその儘にして、ケイ子がいつ帰るか分からないからと、まだ帰って来るのを待っています。お部屋を見ると涙が先に出て、まだ部屋の何処かにケイ子がいる様な気がしてなりません。タンスを開けても、此の服を着て此の間家に帰って来た様な気がする等、引出しを見ても整理整頓してあり、帰らない積りでこんなにきれいにして出掛けたのかと思う程です。
人の一生なんて分からないものですね。今日は人の身、明日は我が身とか。一日、せめて、 一機、おくれて飛行機に乗ったら、こんな思いにならなかったでしょうね。運命に定められていたのでしょうか。
あの昨年九月八日、遺族として北海道に私も行きました。空を眺むればあの台風の様な黒い雲。海を見ればどす黒い広い海、そして冷たい海の底に木片の様に重なり合って沈んでいるのでしょうか、と思う時想像もつきません。みんな思いは同じ遺族の方達ばかり。呼べどさけべどなんの答も帰ってきません。
ケイ子、帰れないケイ子、丁度その時二羽のカモメが第五宗谷丸の船の回りを、波に乗って時折頭だけ出すかと思う様な姿は、実にケイ子に変って逢いに来たかと思う様な気がして、今考えてもその時の気持は忘れる事が出来ません。姪や甥家族揃って大きな声で呼んで見ましたが、むなしく返事は返って来ませんでした。二度と「ケイ子」なんて大きな声で呼ぶ事はもう出来ません。サハリン沖に涙とケイ子を残して「さようなら」を告げて帰ってきました。
月夜の夜は必ず北海道の海も照らしているでしょうか、お月様。海に沈んだケイ子も見えますか? 世界に一つしかないお月様、きっとお話が出来るでしょう、と声をかけては涙を流して思い出して居ります。
葬式の時の黒枠の旗が台風でもぎとられ、お寺の高い木の枝に引っかかって一年余も其の儘になって居ります。ケイ子はきっとあの高い青空をバックにダンスを踊っているのかなあ、と思い出しています。勉強と踊りが出来なかったら死んでも良い、と口ずさんだ事も有ります。
世界的に忘れる事の出来ない此の痛ましい事故。何かにつけて胸の詰る思いで、考えたく有りません。でも考えると悲しさ一ぱいです。遺族の方々の心情は我が事と同様に思われて、ほんとうに情無く思います。どうか、御遺族の方々もお体に充分気を付けて頑張って下さい。きっと冷たい海の中で守っていて下さると思います。
ケイ子、ケイ子、二度と帰れない北の海にて安らかに眠って下さい。 合掌
