Ⅴ:ケイ子さんへ:飯野金雄 (田中ケイ子従兄)

 白い骨壺の中には、黄ばんだ軍服姿の青年の写真が一枚きりしかなかった。
 終戦後、数年してからの私の父の葬儀の日に、県の世話課から戦死の知らせと引換えに渡された骨箱を親族の者が広げたときの光景である。
 幼い私であったが、その時のことはいまでもはっきりと覚えている。
 そして、昨年大韓航空機事故で亡くなったケイ子さんの葬儀に際しても、家族の者が用意した骨壺の中には、ダンス姿の写真と宗谷岬から持ち帰った石、それに少しばかりの遺品が納められているだけであった。
 義弟の胸にしっかりと抱きかかえられた白い骨箱を見た時、三十数年前の父のことがまざまざとよみがえってきた。
 平和だと云われている現在にあって、まさに戦時下と同じような悲惨な出来事によって命を奪われたケイ子さんの葬送は、大きな悲しみのうちに執り行なわれた・・・・

 あれから一年が過ぎた。月日の経つのは早いもので、先日もケイ子さんの一周忌が行なわれ、親類の者や学校関係の人達が大勢集まり、家族を囲んで思い出話しがつきなかった。
 又、学校の仲間の皆さんが立派な文集を作ってくれ、読ませて戴きましたが、これまでのケイ子さんの業績に今さらながら頭のさがる思いがいたします。
 私の、ケイ子さんの思い出は、小さい時の思い出しかありません。男勝りに飛びまわっていた小さい頃から、人一倍の努力家で何でも精一杯がんばっていた姿がうかんできます。
 思い通りに高校、大学と進み、社会人になっても自分の見つけた道、創作ダンスを究めようと一生懸命になっている姿がよくわかりました。
 そのために、遠くアメリカまで勉強に行き、一段とたくましくなって立派な姿を見せてくれたのが、つい昨日のように思い出されます。その時に、子供に買って戴いた御土産のミッキーマウスは、今も子供部屋の机の上でニッコリと笑っています。
 そして、再度の渡米。
 「今度はあまり心配もしていないさ」
 と云う家族の言葉をよそに、あんな事になろうとは・・・・・・。
 思い出すと悲しさばかりがつのります。
 あれから又、二度目の冬を迎えようとしています。ことのほか厳しかった昨冬、さぞ北の海は寒かったことでしょう。今、遺族会の人達の努力によって、ケイ子さん達の慰霊碑建立が進められています。
 春の遅い最北の地宗谷岬にも、やがて花が咲き鳥が鳴く時節がおとづれることと思います。そんな折、慰霊碑建立の槌音がケイ子さん連にも聞こえていくものと思います。
 私達の心の中にある魂鎖の碑を形あるものとして建立し合掌するのは、残された者の努めだと思っております。
 ケイ子さん安らかに眠ってください。

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