Ⅳー28:余田和子の想出:余田さかゑ (余田和子母)
余田和子、昭和二十九年十一月十一日、兵庫県多紀郡篠山町日置一四四番地、余田文三四女として出生、健康でとても明るい性格でした。小学校からお習字がとても大好きで、よくおけいこに通いました。城東中学校では水泳がとくいで、よく選手として出ました。
篠山産業高校商業科では帰宅後毎日毎日ソロバンをはじいていました。高校三年の夏休み、普通自動車運転免許を戴きました。神戸女子大学英文科に入学、卒業前には学生の思い出としてテレビ出演、ラブアタックに出ました。卒業後神戸大和證券KKに入社、会社の皆様に親しまれ、神戸支店の発展に、とまじめに一所懸命邦人科で働かせて頂き、明朗な性格、ウイットに富んだ会話は殺伐とした気持を如何ばかりか柔げていた様です。誰にでも可愛がられ、明るくて優しくて思い切りもよかった様です。五十三年八月、詩情豊かな城下町、丹波篠山デカンショ祭り第一回デカンショ娘として選ばれ、五十六年には神戸ポートピア博覧会に、大阪の住友ビル十二階住友館委員会事務局の別室で未発表の新しいユニホームを着用し、カメラマンの注文するポーズに絶えず笑みを作って応じていた。二千数百人の住友館のコンパニオン応募者の中から選ばれ、二十七人のコンパニオンの姉さん格として、絶えず若いコンパニオンをリードして、毎朝パビリオンに一番乗り、仕事熱心できめ細い心遣いで、重要な来館者には絶えずエスコート役を務めていました。和子は秋がとっても好きでした。
ボートビアが終り、天皇国日本の実現と云う愛国運動の為、東京政治局にバイトとして皆様と共に活動し挺身していました。その間1日も欠かす事なく朝五時に起床、早朝神想観に通い続け、地味な仕事を毎日毎日コッコッぐち一つこぼさず一所懸命に致し、又反面にはとても人まねが上手で、いろんな人の特徴をとらえては何かの折には演技され、皆を笑わせて楽しませていました。又とても面倒見がよく、一人一人のなやみを聞いて色々と相談にのってはげましてやさしくしていました。
旅行は大好きで、学生時代からあらゆる所にいっています。又水泳、スキーが大好きでよくしていました。又テニスも大好きでよくしていました。又ボーリングでもよく賞をもらっ ていました。
昭和五十八年四月に三回目として英語勉強に、と彼にニューヨーク、ニュージャージーにと呼び寄せられて行き、去る九月一日大韓航空機事故での悲報に接した時、憤りと深い悲しみで胸一ぱい。しかしその時点でどうしても信じる事が出来ず、きっときっと生きている、今に元気な顔で姿を現わしてくれると困く信じていました。花の命は短いとは云え、愛してやまない日本の故郷を目前に、その余りにも短い人生を終えた事は、運命のいたづらにも余りにもむごいと云うほかありません。それにつけ、日が立つにつれ悲しみや苦しみは少しもうすらぐ事なく、思い出ばかりに涙を拭うばかり。この事件によって、私達が生を受けこの愛してやまない祖国の安全と平和を守る決意を新たに、和子にとっては美しく大きな花を開かせる時なのに、悲しくも無念でなりません。しかしこの度の大韓航空機事件は単なる事故でなく、軍事超大国ソ連を隣国とする日本の運命を暗示する、歴史的事件であったと思う。世界平和と云う甘い言葉の矛盾と実体と云うものを、大韓航空機搭乗者二六九名の者が犠牲となって、日本人及び全世界の人々に示して下さったのであり、尊い尊い生命を捧げたのであります。
合掌