Ⅳ-11:泣きね入りは出来ません:飯野けさみ (田中ケイ子母)

飯野けさみ (田中ケイ子母)

 ごめん下さいませ。あのきびしかった寒さもようやくうすらぎ日中はやっと春のような季節となって参りました。私、山梨に住む田中ケイ子の母でございますが役員の皆様には毎日本当に御苦労様でございます。上京してお礼申し上げなくてはと思い乍ら体の具合が悪いため今だ一度も出席せず申し訳なく思っております。私事を申し上げます。私の主人は昭和二十六年一月、三十三才で肺結核で亡くなりました。其の時私は二十九才で三人の女の子がおりました。上から五才、三才、一才、亡くなったケイ子は次女で三才、父親の顔は知らず育ちました。何の収入もなく主人の生家からもらった小さな家に入って親子四人でどん底生活で、主人の実家はもちろん私の実家、親せきまでも厄介になりました。でもどうしても自分で子供は育てなければとある神様のすすめで「飲食店をやりなさい」と言われ、ぜんぜん経験のない私は考えました。でも何でもやってみようと決心し昭和三十年から小さい店をかんたんに始めました。小さなきたない家にあちらこちら増築し乍ら小宴会の出来るまでになり、子供も高校から大学と進む事が出来ました。其の間の苦労はなみたいていではありませんでした。自分が無学だったため子供が勉強が好きだったらどんな苦労をしても、とケイ子は甲府二高から東京教育大を出ました。今になって考えますと女の子は高校位で社会に出ていれば良い結婚も出来こんな事にもならなかったとつくづく残念で可愛相でなりません。

 五十三年田中さんと結婚しましたが二年位で離婚、八王子のマンションから都留文科大学に通っておりました。大学では初等教育学科におりましたが小さい頃から踊るのが好きで、大学でも勉学をとり乍らかたわらダンス部を始め、始めは四、五人だったそうですが今は三十人位になり部員と楽しそうに踊っていたそうです。自分の方からだれにでも話しかける娘 でしたから友達も大勢いました。

 大学の生徒も二学期には田中先生に会えるとたのしみにしていたようで、十月二日の葬式には大勢の先生、生徒が来て下さいまして泣いておりました。

 信じられない昨年九月一日のあの事件の知らせをきいたのは九月二日の朝県立中央病院のベットの上でした。腸閉そくで八月二十六日に入院したのです。本当に撃墜されたのか、そんなばかな、私は信じる事が出来ませんでした。廊下にいすを持ち出しすわり北の空をながめどんなに泣いた事か。何日たっても帰って来ません。夢でも話す事も出来ず、半年余り過ぎ去ってしまいました。

 二月二十二日の新聞「私も言いたい」の欄に甲府の布能英雄様から出されていた「人のうわさも七十五日とか言いますがあの無残な大韓航空機撃墜事件は一体どうなっているでしょうか、残された家族の方々の悲痛な声が伝わってくるような気がします」と書かれておりました。知らない人でも私達遺族の事を心配して下さっております。ソ連はもちろん、アメリカ、日本の政府も過ぎ去った事と思っているのでしょうか。大韓航空株式会社の誠意のないのがくやしくて泣いても泣ききれません。人は真相究明なんて軍事ひみつ故どうすることも出来ないと言いますが、私達遺族のものはこのままあの非常識な出来事を泣きね入りする事は出来ません。一日も早く真相究明、又大韓航空会社の誠意ある回答をお願い申し上げます。

 役員の皆々様お体には気を付けてがんばって下さい。よろしくお願い申し上げます。

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