Ⅳ-9:妻と子に捧げるレクイエム(一):武本昌三 (武本富子夫・潔典父)

武本昌三 (武本富子夫・潔典父)

 あの日、昨年の八月三十一日の夕方、ノース・カロライナ州ローリーのアパートで、私は、娘の由香利(ゆかり)と二人だけの、夕食のテーブルについていた。

 前夜のごはんの残りに、ロースト・チキン、缶詰のコーン、それに、レタスのサラダと梅干といった簡単なものである。私のための、バドワイザーの缶ビールも一本。

 テーブルの横の壁には、デザインは子供っぽいが、時間は正確な電気時計がかかっている。その時計の針は、七時近くを指していた。

 外はまだ明るい。西の方に、こんもりと茂った杉の木立があって、その上に落ちかかろうとしている太陽が、窓外の、ひろびろとした緑の芝生の上に、斜めに、赤い光を投げかけていた。

 「今頃は、ままと潔典(きよのり)が、ソウルの空港で、ブラブラしている頃だね」

 食事をとりながら、私は一、二度、由香利にこう言おうとしたのだが、どういうものか、声にはならなかった。

 由香利も、ちょっと沈んでいるようにみえる。

 また、二人きりになってしまった。がらんとして、よけいに広く感じられる室内の空間に、その佗びしさが、前日までの楽しかった想い出と交錯して、どことなく、ただよっているようであった。

 その前日の朝、この同じテーブルには、妻の富子と長男の潔典も座っていて、親子四人、水入らずの、最後の朝食をとっていたのである。

 ノース・カロライナ州立大学の夏休みは終って、新学年の授業は、その日から始まることになっていた。

 アリゾナ大学からの編入学生であった由香利は、八時にはもう、家を出なければならない。私は同じ大学で、教える方の立場だが、当日は講義のない日であった。それで、由香利一人を、先に大学へ送り、私は一旦引返して、今度は、帰国の途につく富子と潔典を、ローリー ・ダーラム空港まで見送っていくことにしていた。

 二人が乗る午后二時四十分発のユナイテッド航空機は、フィラデルフィア経由である。ニューヨークのケネディ空港には、午后六時過ぎに着く。それから国際線にまわって、午后十一時五十分発、ソウル経由成田行の大韓航空機に乗る予定であった。

 由香利は、朝、登校してしまえば、日本に帰るまで、もう母親と弟には会えない。それで名残り惜しくなったのであろうか、朝食をとりながら、

 「私、やっぱり大学まで、由香利を送っていくわ」

 と、富子が言った。

 前日までは、帰国の仕度のために、家にいると言っていたのを、急に変えたのである。潔典も、いっしょに行きたいという。

 「じゃあ、みんなで行くことにしよう」

 私たちは、四人で車に乗込んで、大学へ向った。

 グリーン・メドウズという名の私たちのアパートの前は、ブロックトン通りで、二、三分東に進むと、ニューホープ・チャーチ通りにぶつかる。このあたりは、道の両側に、真直に高く伸びた松や杉が林立していて、森の中を走っているような感じだ。

 ニューホープ・チャーチ通りで左に折れる。小さな湖を左右の木の間がくれに望みながら、五分も走れば、にぎやかなハイウエイ一号に出る。そこから大学までは、南へ約二十分のドライブである。

 六月末まで住んでいた、乾燥地帯の、アリゾナ州ツーソンとは違って、このローリーは、日本の東京のように蒸し暑い。昨年の夏は、ことに、何十年来の異常高温で、外に長くいると、むしむしする暑さがこたえた。

 あまり調子のよくないクーラーをつけ、古い街並を、ダウンタウンの方へ走り続けると、やがて、州議事堂のあるヒルスボロー通りに着く。大学があるのは、この通りと、その裏側のウェスタン通りにはさまれた東側の一角である。

 キャンパスは広いので、由香利の一時間目の教室があるビルの近くまで行って、車を停めた。

 「では、ゆかちゃん、元気でね。手紙ちょうだいね」

 「うん、ままも元気でね。体に気をつけてよ。のんちゃん、バイバイ」

 由香利は潔典にも手を振ると、アメリカの大学生がテキストなどを入れて通学するのに用いるパック・パックを背負って、さっさと歩きだした。

 朝とはいえ、夏の暑い日射しがかっと照りつけ、歩道の石畳に、まぶしくはね返っている。

 富子と潔典は、しばらくは車に入らないで、じっと立ったまま、見送っていた。

 小さな体の由香利が、道路を一つ横切り、足早に歩き続けて、そのまま、大勢の背の高いアメリカ人学生の群の中へ消えていく。

 「アラ、ふり向かないわね」

 と、富子が言った。

 彼女は、娘がふり向いたら手を振ろうと、手を上げかけたままの姿勢で、見守っていたのである。

 「・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 私は、その富子のことばに答えようとして、不意に胸がつまった。

 何気ない別れのようであっても、思いは深い。由香利と二人だけであったツーソンでの前年の夏以来の出来事が、急回転の走馬燈のように、脳裡をよぎっていく。

 黙って車に乗る。車が動き出す。私はやっと、重い口を開いた。

 「由香利はね、きっと泣いていたんだよ」

 それだけ言うと、急に、ぐっとこみ上げてくるものがあって、私自身が、不覚にも、涙を落しそうになった。

 仲のよい母親と娘である。特に由香利にとって、母親は、誰よりもやさしく、美しく、自慢の母親であった。その母親と、また、別れるのは、ひどくつらいに違いないことは、私にはよくわかっていた。

 由香利は、一人で先にアメリカに来て、一か月後に私が続いた。それから、もう一年が過ぎている。

 正規の学生として、アメリカ人学生と成績を説いながら、英語で対等にわたりあっていくのは、決して生やさしいことではない。はじめは、半年たって春休みになれば、母親と弟が来るという希望があって、耐えられた。しかし、春休みになっても、母親も弟も来られなかった。来たのは、上智短大時代の友人だけであった。

 これからも、母親がいっしょならば、何かと慰められるであろう。しかも、はじめの予定では、母親は残ってくれることになっていたのだ。東京外大に在学中の弟は、帰国しなければならないとしても。

 母親の実家の不幸が、すべてを狂わせてしまった。

 勝気な由香利が、涙を見せまいとして、ふり向かなかったとしても、不思議ではない。

 「それは、わかっていますよ」

 と、富子が答えた。声が湿っている。

 ちょっと、車の中に、沈黙が流れた。深典もだまって、窓外に眼を向けていた。

 あとで由香利から聞いたのだが、その日、彼女が大学から帰ってみたら、机の上に、潔典愛用の“ウォークマン”が置いてあったという。

 「それ、おいていってよ」

 と、何日か前に、由香利が軽い気持で言ってしまったのだそうである。アパートには、テキサスにいた義弟が、春に帰国の際くれていった大型のステレオセットがあったから、潔典の“ウォークマン”が、是非必要というのではなかった。

「これは、だめだよ」

 と潔典は、その時は、断ったらしい。

 彼は、ギターはかなりの名手で、フォークを愛し、さだ・まさしを好んで聴いていた。行き帰りの飛行機の中でも聴くつもりで、持ってきたのであろう。それが、その日の朝の、父親と母親の会話を聞いたりして、急に、姉をいたわる気持が強くなり、気持を変えたのかもしれない。

 英語で、置手紙がそえてあった、と由香利が見せてくれた。

 潔典のは、英語の字も、のびのびとして素直で、どことなく、あたたかみを感じさせる。

 「これをおいていくから、たまには気晴らしして下さい。でも、あまり長い時間続けて聴くと、耳によくないから、気をつけて」

 大学で由香利と別れてから、ハイウエイ一号を北へ戻って、グリーン・メドウズへ帰る。荷物をまとめて、人のよい管理人のメアリーに挨拶をし、昼近くに三人で、空港へ向った。

 空港までは、北西へ車で約四十分。途中にショッピングセンターや、ペットの墓場があったりして、起伏の多い旧州道を何度か上り下りしているうちに、広大なアムステッド州立公園の前まで来る。そこからは、ローリー・ダーラム空港は、すぐ間近である。

 このアムステッド州立公園には、その二、三日前にみんなで来たばかりであった。

 大きな森と湖がそのまま公園になっていて、中には、いくつかのキャンプ場もあり、ボート乗りやバーベキューの設備も整っている。

 富子と潔典の帰国を目前にひかえて、そこでバーベキューをするのが、私たちの、最後の予定であった。

 異常熱波の襲来で、九十四度(約三十五度C)にもなっている蒸し暑さの中で、まず、ウイーンディックスというスーパーマーケットへ、牛肉や野菜の仕入れに行った。

 私と潔典がいっしょにカートを押し、そのあとを、富子と由香利がゆっくりとついてくる。広い店の中はひんやりとして、冷気が心地よい。

 バーベキュー用の牛肉が並べられてある所へ来た時、その中の、巨大な、一キロ半はありそうな牛肉の塊を指さして、ふと、潔典が言った。

 「こんなビフテキを、死ぬまでに一度は食べてみたいな」

 私は笑い出した。「死ぬまでに一度」と言ったのが、小さな影を落したが、その時の私には 、気にとめるほどのことではなかった。

 「いくらお前でも、それは無理だ。こちらにしろよ」

 そう言って、その半分くらいのを、潔典用にえらんだ。

 潔典は、にこにこしながら、父親に従う。天性の明るさと純情さで、彼は、こんな時にも、決して自己を主張しない。

 しかしその時、この、半分の大きさの牛肉を私がえらんだことは、今では、痛いほどの後悔である。しかも、それは、あとで焼いてみると、少し固かった。私の方がやわらかい。ちょっとすまない気がして、半分ずつ、取りかえてもらった。

 「あのバーベキュー、あまりうまくなかったね。いつか、また来ることがあったら、やり直したいね」

 私は、そんなことを言いながら、その州立公園の前を通り過ぎたのである。

 ローリー・ドーラム空港に着いてから、ユナイテッド航空のカウンターで、スーツケースを二つ預けた。用心して早目にアパートを出たので、チェック・インしてからも、時間はたっぷり一時間以上もある。

 ラウンジの椅子に並んで座って、とりとめのない想い出話が続く。

 思えば、慌しい夏であった。

 私がノース・カロライナへ来ることも、最後まで決まらなかった。フルブライト上級研究員として、アリゾナで一年間過ごしたあと、期間を延長しないで、その夏には日本へ帰ることにするかどうか、迷いに迷ったのである。

 富子と潔典の飛行機の予約も、最後までとれなかった。八月三日になって、やっと大韓航空のキャンセル待ちの航空券が手に入り、八月五日にニューヨークへ飛んできた。

 それから二十五日間、ちょうど九年前の夏にそうしたように、親子四人で、車にテントや食糧を積込み、マサチューセッツからノース・カロライナまで、かなり無理して、広範囲に、いろいろな史蹟や博物館などを見てまわった。それが、ともかく、無事に終ったのである。

 「いっしょに日本へ帰りたいね」

 と、私は富子に、二度か三度は言った。少し疲れていたかもしれない。四人家族が二人ずつ、日本とアメリカに別れて住む侘びしさも、私には身に泌みはじめていた。

 潔典は、時折あたりを歩いて、売店の女店員と何やら笑って話をしたりしている。子供の時に、アメリカで覚えた英語は、そのまま彼の中に生き続けていたようであった。

 アイスクリームを買い、父親と母親のためにも、一つずつ持ってきてくれた。三人並んで座って食べる。

 「やっぱり、アメリカのアイスクリームはおいしいですね」

 と 、富子は言った。

 私たちが別れたのは、それから間もなくである。富子と潔典は、落着いた足どりで、飛行機の中へ消えていった。 私は、空港から大学へ引返した。オフィスで、翌日の講義のことを、二、三打合わせしたあと、授業を終えた由香利と待合わせて、いっしょにアパートへ戻った。

 その夜、ニューヨークのケネディ空港から、二度、電話がかかってきた。無事着いたという電話が、午后七時頃。もう、チェック・インもすんで、座席も窓際がとれ、あとは乗るだけ、というのが、午后九時過ぎ。

 富子と潔典が、かわるがわるでたが、

 「いっしょに日本へ帰りたいね」

 と、私はその時もまた、富子にくり返した。

 どういうわけか、しきりに里心が、こころをかすめていたのである。

 それから、もう、二十二時間経っている。

 由香利と二人だけの夕食が終った。彼女に手伝って、後かたづけをはじめた。効率がよいということで富子がほめていた自動食器洗い器に、次から次へと食器類を並べていく。

 ――その時であった、あのニュースが流れはじめたのは。

 「KAL機が予定の時間になっても、ソウルに到着せず、行方不明…………」

 はっとした。リビングルームのテレビにかけ寄る。そこには、毎夕七時のニュースで見なれた、CBSの女性アナウンサーの顔があった。早口でくり返している。

 「KAL、○○七便、ニューヨーク・ケネディ空港発、アンカレッジ経由ソウル行、予定時間にソウルに到着せず、行方不明」

 間違いない。富子と潔典が乗った飛行機だ。

 一瞬、からだ中の血が凍った。

 電話を鷲づかみにする。わなわなと震える手で、ダイヤルをまわしはじめる。

 ニューヨークの大韓航空支店。話し中。またかける。話し中。三度、四度、話し中は終らない。

 ロスアンゼルスの大韓航空へかける。呼出し音の鳴っている間が、ひどく長く感じられる。女子社員が出て、下手な英語で答えた。

 「テレビ報道以上のことは、こちらではわかりません。ニューヨークに聞いて下さい」

 またニューヨークにかける。やっと通じた。事務的な男性の声。

 「○○七便はどうなったんだ」

 つい、電話に向って怒鳴ってしまう。

 「まだよくわかりません。ソウルに問合わせ中ですから、もう少し待って下さい」

 あとは、何を聞いても、「わからない」の連続であった。

 埒が明かない。ガチャンと電話を切った。

 すぐ、東京へダイヤルをまわす。義妹が出た。

 「あの大韓航空○○七便に、富子と潔典が乗っています。そちらで情報を掴んで知らせて下さい・・・・・・・・・」

 声が上ずっている。悲鳴のように聞こえたかもしれない。のどがからからのようだ。

 長い、地獄の苦しみと慟哭の、これがそのはじまりであった。

 第一の章 終。(一九八四、三、三十一)

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