Ⅳ-12:個人としての心情:中沢トリ (中沢建志母)

中沢トリ (中沢建志母)

 あの世界中を驚かせた九月一日の事件以来、もう六ヶ月も過ぎてしまいました。あまりにも大きな、考えられない事件であっても、今はもう社会の片隅に或は忘れ去られようとしている。

 我々遺族にとっては愛する我が子、そして夫、或は妻と、何ものにも変えることの出来ない命を一瞬にして無きものとさせられてしまいました。日、一日と月日は過ぎて行きましても、仲々悲しい状態から抜け出せず苦しい毎日を送っております。現在戦争時でないのに、一般の乗客の乗った飛行機がソ連の領土を侵犯したからと云って、どうして、何故、撃墜されなくてはいけないのです? 全員、二百六十九人もの沢山の人が皆、健康で何の悪い事をした訳でもないのに殺されてしまったのです。この行為は、ソ連がどう弁解をしようとも決して許されるものではないと思います。そして大韓の飛行機がどうしてソ連を深々と領空侵犯したのか。第一の原因を作ったのは大韓なのだから。死に至らしめたのは大韓なのです。大韓がソ連にさえ行かなければ、こんな事件は起きなかったのです。元気に出掛けて行った我が子が、その時を境に、永遠の別れだなんてそう思わなくてはならないのですから本当にやり切れません。この気持、到底言葉には言い表わす事は出来ません。

 今回事故にあってしまった子供の人柄について少し書いて見たいと思います。小さい時から気持のとても、やさしい子供で、親に、口答えなどしたことは全くと云って良い程なく、本を読んだり絵を描くことが大好で静かに音楽を聞くことも好きでした。よく兄弟でけんかをしましたが、いつも弟に力いっぱい反撃されて泣いている様な子供でした。ですからスポーツは全く苦手でした。中学生の頃から、中学生になって特に絵に興味を持ち美術部に入り一生懸命やってました。そして高校の高学年になって、美大に入りたい希望があったので、東京の水道橋で絵の勉強に個人の夜間教室に通い、いつも夜、家に着くのが十時頃でした。お腹がすいて倒れそう、などと言い乍ら、そんな日課が続きました。高校から武蔵野美術大学に、浪人もせず合格する事も出来、本当に、いつもこつこつと我が道をゆくと云った態度で頑張ってました。家から通うのに学校まで遠い為、アパートを借りて、その分少しでもアルバイトでもした方が何かと、自分も大学三年生にはヨーロッパに行きたいなんて云うものですから、それを聞き入れることにし、勉強するかたわらバイトで少しずつ(家からも学費と生活費は勿論送ってましたが)貯金をし、そして三年生になってヨーロッパへ友人と二人で、十一ヶ国を二ヶ月半で旅行をして参りました。半分位は費用を親が出して上げましたが、物事にとりくむ姿勢が熱心なのでつい協力をして上げるのが又親として、たのしみの一つでもあったのです。色々と沢山の素晴らしい体験をした様です。広い視野に立って大変良い勉強になった様です。色々と思い出話をしてくれました。あの子の事が、今となっては私にとっても、やはり何もかも思い出となってしまったのです。だから情けないのです。何も話すことも出来なくなってしまったのですから。大学を卒業するまでに、上野の美術館で独立展や第三文明展にも出品し入選した事もあったのに。本人も大変喜んで居りました。しかし今となっては沢山の絵と共に、ひっそりと遺作として残るのみになりました。大学卒業と共に、美術の先生として、神奈川県綾瀬市立城山中学校の教諭となる事が出来、昨年は三年生の生徒を担任として受け持っておりましたのに三年と五ヶ月間の教員生活で、これからが楽しみと云うときにあの事故にあってしまったのです。学校の近くに家を借り一人で自炊してまじめに生活をしていました。テレビがあると時間が無駄になると云って、今日の若者が買う事もせず、学会員であり、信仰心の強い子で、大変純真な信心をしており、自分がこの信心を 持てた事が生きて行く上で何よりうれしい境涯だ、ともよく云っておりました。一人の人を、人の命を幸せに導くことのできる仏法だからと、そして一人の生徒の悩みも、自分の悩みととらえ解決したいともよく云っていました。アメリカへ行く一つの理由としては、友人との仏法対話と美術の勉強を兼ねて行ったのです。出掛ける前に、私に話した言葉なのですが、自分の生命も永遠なのだから、若し何かあっても悲しまないで欲しいと。その様なことまで言って出かけました。今は何とも不思議な、まるでこの様なことになることを、見通していたかのような思いをさせられております。子供の生きる姿を通していろいろと(私に後の事をバトンタッチしてネと云う気持を)大事に受け継いで行きたいと思っています。

 この間、遺族会の集まりの席で外務省の加来さんがお話をして下さったソ連に遺留品を引き取りに行った時の、九月二十七日の三時二十七分頃の丁度同じ時刻頃に地平線の上の方で起きた、三回段々上空に亘って明るく大きく広がり、そして炸裂した状況の説明がありましたね。そしてどこともなく雲が湧いて来てどう見ても平和と読めたと、その話を聞かせてもらい本当に感激いたしました。我が子建志は心から平和と云う事をよく生徒さんや友人にも常に話しており組んでおりました。二百六十九人の方々が心から真に、我々生きている者に一番訴えたい気持であったのではないでしょうか。私達は世界中の人達にこの死を無駄にしない為平和を訴えて、少しでも役立たせていただけましたら幸せだと思います。

 この現在の苦しみを乗りこえて、遺族会の皆様、これからもどうぞよろしくおねがい致します。

 中学生の時の美術の先生秋葉正志先生の詩

・中沢建志君の御霊に捧ぐ四首

一、罪もなき民間機ならん何故の
   「撃墜」なるぞ怒りこみあぐ

二、美を訪ね渡米せし君に「撃墜」は
   運命と云へど余りに悲し

三、せつせつと世界平和を説きし君
   東西緊張のはざまにぞ逝く

四、何一つ遺品無きまま野辺送る
   御霊いずこ宿りたまわん

みたま安らかに

罪もなき民間機だに
  何故の撃墜なるぞあまりにも悲

帰路途中海のもずくと
    残れし家族怒りこみあぐ

何一つ遺品なきまま日を重ね
  つきぬ想いにみたま安かれ

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