Ⅳー26:つれづれなるままに:山口一江 (山口正一母)
そう、私達夫婦が正一君と最后に別れたのは昭和五十八年六月五日京都駅のプラットホームでした。幼い娘二人をつれ(男の子は母親と教会へ行きました)私達を見送りに来てくれました。電車の来る間正一君は子供達を細かく世話をして飲物等のませて口をふいたり手を洗ってやっていました。私には「牛乳が売切れたので豆乳をお上り」と云ってくれましたが、私は「豆乳は飲んだ事がない」と云うと「体のためにとてもいいよ」と勧められて、初めて飲んでみました。ブラットホームで二人の娘の世話を良くして、私には優しいお父さんぶりがまぶたに残っております。そのお父さんももう子供達のそばには二度と現われません。本当に子供が可哀相で言葉も有りません。電車発車寸前になると、正一君は照れながら私に向って「今回はいそがしくて(会社が) よくかまって上げれなくてわるかったネ」と云いました。私はすぐ「とても楽しかったよ。あなたのおかげで九州へも四国へも旅行する事出来たんですもの。夏休みは楽しみにまっているよ。」と云いました。時間(発車の)になると、一人をだき、一人の手をしっかりにぎり、子供達に見えなくなる迄手をふらせていました。私からは、遠くに三人のかげがブラットホームに黒いかたまりになって、其の内ボーッとなって私の視界より消えて行きました。そして八月に電話がはいり、「アメリカ出張のため長野へは帰れない。その替り九月の頭に駐在休暇が出るので今度は仕事ぬきで一週間ゆっくり五人で帰るよ。」と云ってくれ私をうれしがらせました。今迄せいぜい三日か四日とまる丈で、しかも仕事を持って来て何やら書いておりまして、本当にあの人はあわただしい忙しい人でした。その声が最后で正一君は遠い所へ、幼い子供三人を残し、私達三人を残して突然遠い所へ逝ってしまいました。否逝かされてしまいました。そしてあの九月一日の大事件です。私は泣けて泣けて泣きました。今でも泣けて正一君の事に関しては自分を制する事が出来ません。この事件の方皆さんがそうでしょうが、私には正一君は命でした。全てでした。将来をゆだねた人でした。「何日でもいいから生駒で一所に暮らそう」と何回も云ってくれました。よもやこんな大事件にあの人に限り絶対にまき込まれない、と何故かかたくなに信じておりましたので・・・・・・。
こんな事になるんでしたら一緒に暮らしていたらと、そうしたら私達夫婦の人生も変っていたでしょうに、と思っております。正一君は社会へ出て十二年、結婚して七年全ての事にパーフェクトでした。妻を愛し、子供を可愛がり、親を大事にしてくれ、仕事に全力投球で、あんなに一所懸命生きて息切れしないか、と私は内心心配した位でした。正一君あなたも仕残した事が山ほど沢山有り、どんなにかくやしいでしょう。でも運命です。私はあきらめる事は絶対に出来ませんが・・・・・・。天国でゆっくり休んで下さい。事件がおきてやがて一周忌が来ます。思いは切々と新たに、涙のかわく事は有りません。こんな悲しい事が、せつない事が、理不尽な事が、くやしい事が有っていいでしょうか、と私は世界に向って思いきり叫びたいです。正一君重ねて安らかに天国でゆっくり休んで下さい。そして皆を守って下さい。