Ⅳー18:叔母と私:竹内碧 (富高八重子姪)
冨高八重子は私の父の異父妹です。父の父は日露戦争に出征し、帰還して身体が回復しないまま病死したと聞いています。父の母は再婚して八重子を産んだので、兄である私の父とは十九才の年令の開きがあります。私は父の末っ子ですが八重子とは十一才しか離れていません。生後一年の時から約一年近く祖母の家で育てられた事もあり、叔母を八重子姉ちゃん姉妹という感覚が身についていました。祖母は比較的年とって出来た娘可愛さと将来への不安の為か、“八重子姉ちゃんと仲良く助け合って欲しい。”とよく私に話していました。事実叔母は若々しく、明るく、何となくあこがれと親しみの持てる女性で、特に私の母が亡くなり、父が身体をこわしてからは、心から頼りになる人でした。
多感な娘時代を戦中戦後に過ごさなければならなかったその時代の女性の皆さんと同様、青春時代にはかなりの心残りを感じていたと思われますが、両親の愛情だけは充分に身に受けて過ごしたようです。お茶・お花・謡曲・お仕舞等、お稽古事はすべて師範クラス迄身に付けました。
英語の力は、別府女子専門学校英文科を卒業した当時は、今から見ればたいした力ではなかったかも知れませんが、米軍キャンプに勤務するようになり、MP・将校の人達と勉強会を繰返し、徹底的に勉強をやり直したそうです。だから叔母の英語は流暢で正確で範囲の広いものであったと思います。少々引込み思案であったのが、明るく人見知りしなくなったのも、この米国の人達の影響を受けた為かも知れません。
頼まれて教えるようになり、別府のキャンプが閉鎖されてからは英語塾経営に専心しましたが、親子二代にわたる教え子も多くなって来ていました。自分の生徒について、発音だけはどこに出しても恥ずかしくない、と自負していたようです。事実叔母のもとで育った英文専攻の大学生は、大学でその点をよく賞められたと聞いています。
昭和三十八年に祖母を、四十九年に祖父を看取った叔母は一人ぼっちになりましたが、私の「どうしてる?」という問いかけに、いつも「良いお友達が沢山いるから淋しくはないのよ。」と話していました。
外国に度々行くようになったのは祖父の死後で、目的はいつも勉強と精神的な休養でした。第二の青春を今度こそ・・・・・・と楽しんでいるように、颯爽と、行く先々で良いお友達を大勢つくりながら。
“何かあったら国際電話かけるから。”と云って、五十八年六月二十四日、ハーバード大学留学の為成田を出発しました。その時私は手帖の九月一日の欄に、12:10着KE704便と記入しました。ソウル発―成田着の便名でした。叔母がこの便に永久に乗る事がないなどとは露程も考えず。
“淋しくはないのヨ。”と、自分を励ましながらも、淋しく気が狂う程の不安を感じる事もあったであろう一人暮らし。”いつでも私のところへいらっしゃい。その準備はあるから。“と一度でも云えばよかった、と悔いが残っています。でもね八重子姉ちゃん、そんな言葉はまだまだ身心共に必要じゃないと思っていたからなのよ!
今回の旅も、ハードスケジュールでかなり疲れていたと思われます。多分機内では眠っていたと想像しています。別府へ帰り着いて、待ちかねた塾の生徒さん達に楽しかったお土産話しをする夢を見ながら・・・・・・。ずっと、ずっとその夢を見続けて下さい。
お葬式は約束通り出しました。お祖父ちゃんお祖母ちゃんと三人仲良く並んだお位牌も出来ています。
国際間の難かしい問題はよく判りませんが、平和と云われている時代に、最新式の武器があの叔母の身体を粉々にしてしまったと思うと身体が冷たくなる程の怒りを感じ、何故こうならなくてはならなかったのか、という事を知りたい、又知る権利と義務があると思います。大きな暴力の前に無残に散った人達の為に、二度とこのような事件を起こさないよう世界の人々に訴える為に。
叔母の最後の葉書きの最後の言葉”成田でお会いできると良いのですが・・・・・・“その通り私も成田でお会いしたかった。