Ⅳー16:妻と子に捧げるレクイエム:武本昌三 (武本富子夫・潔典父)

   (二)

 私はテレビの前に座りこんだ。
 ローリーには、テレビチャンネルは四つある。CBSのほか、ABC、NBC、それに教育テレビのNET。
 CBSからのKAL機行方不明のニュースが終ると、すぐ別のチャンネルに切換え、少しでも情報を集めようとした。しかし、新らしい情報は何も得られなかった。「ソウル着陸の二、三時間前に日本近海で行方不明、目下韓国政府外務部が日米両国政府に捜索を依頼中」というようなことだけである。
 三十分経った。
 待ちきれなくなって、またニューヨークの大韓航空へ電話する。今度はすぐ出た。大勢の社員が集まっているらしい。がやがやと人の声が受話器から伝わってくる。しかし答えは、前と変らなかった。
「ソウルに問合せ中です。本社でもいろいろと調査中ですから、もう少し待って下さい」
 なお少しでも何かを聞き出そうと執拗に喰い下る私に、相手は困惑した様子で、「何か情報が入ったら知らせるから、そちらの電話番号を教えてほしい」とだけ言った。
 どうしようもない。教えて、ガチャンと電話を切る。
 テレビは通常の番組を続けながら、時折、スポットでKAL機行方不明のニュースを繰返し、「乗客は二百四十名で、アメリカの国会議員マクドナルド氏も乗っている」と最後につけ加えていた。
 一体どうなっているのか。エンジンの故障か何かで、日本海の真中にでも落ちたのか。ゴムボートにでも乗って、漂流しながら救助を待っているのか。もしそうなら、一刻を争う緊急事態ではないか・・・・・・
 時計を見る。いらいらする気持を抑えながら、またニューヨークの大韓航空へ電話して「まだその後の様子は掴めないのか」と聞く。また同じ返事が返ってくる。不安がひろがって、胸が張り裂けてしまいそうである。
(落着け、落着け)
 自分で自分に言い聞かせながら、私は必死であった。
 (慌ててはだめだ。こういう時には慌ててはだめだ)
 しかし、努めて平静を装おうとしても、最初の強烈な衝撃がずっと尾を引いていて、なかなか自分を取戻すことができない。
 由香利もテレビの前のソファーにじっと体を沈めて、懸命にショックに耐えているようであった。
 そのまま重苦しく時が流れていく。
 また三十分。それから一時間。一時間でもひどく長く、何時間にも感じられる。
 テレビはどのチャンネルをまわしても、新らしい情報は何も入ってこない。
 ニューヨークの大韓航空へは、その後も二、三十分おきぐらいに電話してみるが、依然として、「問合わせ中」「調査中」の返事が返ってくるだけであった。むこうからも、一度もかかってこない。
 じりじりと、ただ待つだけであった。
(日本にいる姉や妹たち身内の者も、今頃は大変であろう。何かニュースが入ったらすぐ電話がくる筈だから、電話がこないところをみると、日本でも新らしい情報は掴めていないのにちがいない)
 一体どうすればよいのか。
(このままでは不安の重苦しさに、押しつぶされてしまいそうだ)
 翌日はノース・カロライナ州立大学で、私がはじめて教壇に立つ大切な日であったが、こんなことになってしまって講義どころではない。最悪の場合は日本へ飛んでいかなければならない。
 時計の針がもう九時をまわっているのを見て、私は重い腰を上げ電話の受話器を取った。あまり遅くならないうちに、K教授に連絡しておかねばならなかった。
 「ニュースでご存じかもしれませんが、ニューヨークを昨夜出たKAL機が、日本近海で行方不明になっています・・・・・・」
 私はゆっくりと低い声で話し出した。こういう時の電話は辛い。内心では大声で叫び出したいくらいの不安と動揺を、無理に抑えているのである。
「実はあの飛行機に妻と息子が乗っているのです。未だに何の連絡もないものですから遭難したのではないかと・・・・・・」
 K教授はさすがに驚いた様子であった。
「・・・・・・・・・・・・」
 電話のむこうで一瞬絶句している。
 そのつい四、五日前に、私たちはK教授夫妻を夕食に招待したばかりであった。
 富子は、自慢のトンカッを作って夫妻をもてなし、潔典も夫妻と気軽に話し合って、みんなで和やかな、楽しい一夜を過ごしたのである。富子が日本から持ってきたローケツ染の風呂敷をもらって、夫妻はよろこんで帰っていった。富子と潔典の帰国のことは、一応知らせてはあったが、まさかあの飛行機とは思っていなかったようである。
「・・・・・・大変なことになりましたね。明日の講義のことは私の方で何とかしますからご心配はいりません。それよりもとにかく、奥さんと息子さんのご無事をお祈りしています。何か私で役に立つことがあったら、どうぞ仰言って下さい」
「ありがとうございます」
 私は力なく答えた。
「最悪の場合は、明日にでも日本へ帰らなければならないかもしれません。その場合には早朝にでもまた電話させていただきますから、悪しからずご了承下さい」
 電話から離れると、私はまたテレビの前に座りこんだ。ソファーに腰を下ろして、テレビとの距離をあけておく気持の余裕もない。カチッ、カチッとチャンネルをまわしては、事故のニュースを捕えようと努める。
 由香利は、不安と緊張の大きさに耐えかねてか、とうとう自室に引きこもってしまった。
 また、重苦しく時が流れる。
(やはり何かをしなければならない。ただじっと待ち続けるのは耐えられない)
 しかし何をすればよいのか。私は頭を締めつけられるような苦しみの中で身動きがとれなかった。辛うじて考えたのは、いづれにせよ帰国の準備だけはしておいた方がよさそうだ、ということだけである。
 私は立上った。のろのろと奥へ向い、由香利の部屋をのぞいて言った。
「由香利、まだ悲観することはないと思うけれど、一応荷物だけはまとめて、日本へ帰れる ようにしておこう」
 由香利は服を着たままベッドの上にぐったりと横になっている。部屋の片隅のスタンドからの淡い明りを横から受けて、顔が青白い。
 私も一度自分の部屋へ入って、スーツケースを引張り出し、衣類などを入れはじめてみた。少しでも仕度をしておかねばならないと思った。しかし、やはり落着かない。またテレビの前に戻って座った。

 どれくらい経ってからであったろうか。どうもその前後は時間の感覚があいまいで、よく覚えていないのであるが、午后十時はかなり過ぎていたかもしれない。
 突然、CBSのチャンネルで番組が中断されて、スポットニュースが流れはじめた。早口の英語がたしかに、「KAL機はサハリンに不時着した模様だ」と伝えている。大韓航空の広報担当者だという韓国人二世らしい若い女性も登場して、同じように不時着のことを述べたあと、
「All passengers are safe. The crew members are safe.」
(乗客の皆さんは全員無事で、乗員も無事です)
と、特に「are safe」のところを強く発音して繰返した。安全であることを自信ありげに強調しているのだ。
 私はおどり上った。とっさに由香利の部屋の方へ向って大声をはり上げた。
「由香利!大丈夫だ」
 とたんに由香利はわっと声を上げて泣き出した。
 自分の部屋にいながら、耳だけはリビングルームのテレビの声に集中させて聴いていたらしい。ちょうど部屋から出てこようとするところであった。泣きながら、また部屋に入りこんでしまった。
(あーあ、本当によかった。それにしても、ずい分心配させよって……………)
 私の眼からも涙がぼろぼろこぼれ落ちた。
 その時、電話のベルが鳴った。東京からであった。堰を切ったような義妹の声が流れる。
「サハリンに不時着したそうです。乗客は全員無事だということです…………」
 すぐまた、東京からの二本目の電話が続いた。姉からであった。
「よかったね。もうこれで安心ね。寿命が縮む思いだったでしょう。とにかく無事でよかった、よかった」
 大きく息を吐き出した。緊張が一度に弛んで、へたへたとソファーにくずれ落ちた。
 少し経ってから、K教授からも電話がきた。
「東京にいる友人の新聞特派員に先程電話をかけて、情報を知らせてくれるように頼んでおいたのですが、そしたらいま全員無事のしらせが入りました」と言う。
「ちゃんとした新聞の特派員ですから、この情報は間違いないと思います」
と、つけ加えた。
「ありがとうございます。いろいろとご心配をおかけしてすみませんでした。明日は大学へ 出ますから」
 そう答えながら、私はうれしかった。とにかく救われたのである。
 やがて由香利が出てきた。もう心配することはなかった。二人でコーヒーを飲む。夕食時から途絶えていた会話がにぎやかに復活した。つい先程までの、部屋中にみなぎっていた重苦しさが全くうそのようである。
「ままとのんちゃん、日本には何時帰るんだろうね」
 由香利はすっかり明るくなって、うきうきした声で言った。
「さあ、明日にでも帰れるんじゃないかな。サハリンなら北海道がすぐ近くだし・・・・・・」
 と私は答えた。あんな大きな飛行機が着陸できる飛行場がサハリンにはあったのかな、と不安がちょっと頭をかすめたが、機体に少しぐらい損傷があったとしても、「全員無事」というのなら心配するまでもないことだ。
「これでままものんちゃんも、日本へ帰ったら大変だろうね。きっとテレビや新聞のカメラマンなどがいっぱいいて大騒ぎされるよ。のんちゃんの友達なんかも大勢かけつけてくるんじゃないかな」
 と、由香利。
「うん、そうだね」
 私も相づちを打ちながら、カメラの放列の中を通り抜ける富子と潔典の姿を頭にえがいたりした。
「しかし大変な経験をしたもんだね。潔典は割合平気かもしれないけれど、ままは、もうア メリカはこりごりだと言うかもしれないよ・・・・・・」
 しばらくはこのような他愛のない会話が続く。極度の緊張から解放されて、おだやかな満ち足りた気持であった。時間はいつのまにか、十二時をまわっている。そのことに気がついて、
「由香利、もう寝ることにしよう。今日は学校へ行かねばならないから」
と私は言った。
「ままと潔典は、あれだけテレビでもみんなも言っているんだから大丈夫だろう。今日学校から早く帰ってきて、東京へ電話してみよう。もしかしたら、その時にはもう、ままも潔典も家にいるかもしれない・・・・・・」
 私と由香利はリビングルームの明りを消して、それぞれ自分の部屋へ引き上げた。
 私の部屋のクローゼットの前には、ちょっと前に引張り出したスーツケースが、あけられたまま放置されている。中につめこもうとしていたワイシャツ、ネクタイ、下着類がまわりに散らばっていた。
 私はそれらを片づけようとして、ふと、そこにあったカメラを取上げた。そして、そのスーツケースのまわりの乱れた情景を一枚、写真に収めたのである。
 あとで、富子と潔典に見せてやろうと思ったのであった。
「ほら見ろよ、こんな風に大慌てで、荷物をまとめて日本へ帰る仕度までしようとしていたんだよ」
 何日か後には、おどけた調子の電話か手紙で、そう言える筈であった。
 その写真はいま、私の手許にある。現像焼付されたまま、机の引出しの奥深くしまいこんであるが、取出して見る気はしない。
「全員無事」のニュースと電話、由香利の泣声、その後の他愛のない会話などとともに、この一枚の写真は、運命というものが人間に対していかに残酷でありうるかという非情の極限を示すものとして、いまも私の胸に鋭く突き刺ったままである。
 しかしもちろんその時は、そんなことは知る由もなかった。
 写真を撮ったあとで、ざっとその辺を片づけ、ベッドに体を横たえたが、どうもよく寝つけない。うつらうつらしかけてすぐまた目が覚めてしまう。あれだけのショックがあったのだから、まだ神経が高ぶっているのであろうか。
 私は、寝つかれない夜には時々そうするように、ウイスキーでも少し飲んでみようか、と思った。時間はおそらく、もう一時過ぎであったろう。
 この一万平方メートルはあるグリーン・メドウズのアパートの敷地全体が、濃い緑と深い夜の雑に包まれて、森閑と静まりかえっていた。

 突然、けたたましくリビングルームの片隅の電話が鳴りはじめた。
 本能的にぎくりとする。
 走り寄って明りをつけ、受話器を取り上げた。東京の義弟からである。
「あの・・・・・・」
と少し言い澱んでいる。
 さっと不吉な予感が全身を突き抜けて走った。黙って次のことばを待つ。
「あの……、日本の外務省の問合わせに対するソ連政府の回答が発表されたのですが、ソ連側では、サハリンに民間航空機が不時着した事実はない、と言っているそうです。行方不明の原因はまだよくわかりません。もしかしたら空中分解したのかもしれない、と・・・・・・」
「空中分解?」
 万事休す。私は終りまで聞いている力はなかった。受話器だけは耳にあてたまま、頭だけが深く垂れていく。二度目の大きな、しかも決定的なショックが体全体にずっしりとおおいかぶさってきて、それ以上は声もたてられずに亡然自失していた。
 むごいことである。しかしその時は、むごさを意識する余裕さえなかった。倒れずに立っているだけで精いっぱいであった。
 私は受話器をおくと、へたへたとまたテレビの前に座りこんだ。スイッチを入れた。
 異常な気配を察してか、何時のまにか由香利もそばに来て立っている。
 テレビの四チャンネルのうち、CBSだけは深夜も放映を休まず、番組を流し続けていた。しばらくして出たスポットニュースで、やはり「ソ連政府はKAL機がサハリンに不時着した事実はないと通告してきた」と、はっきり言っている。
 ソ連政府が、こういうことでウソをつかなければならない理由はない筈だから、サハリンにいないことだけは確かなのであろう。それなら海の上か、それとも、本当に空中爆発でも起こしてしまったのか。いづれにせよ大変なことになってしまっていることは間違いない。絶望感がひしひしと胸にこたえはじめた。
 二、三十分して、またスポットニュースが流れた。
「KAL○○七便が行方不明です。乗客乗員二六九名で、マクドナルド議員も乗っています。一時サハリンに不時着したという情報が伝えられましたが、ソ連政府は、同機がサハリンに不時着した事実はない、と通告してきました」
 ほとんど前と同じ内容で、同じ原稿を棒読みしているような感じだ。しかし今度は、すぐそのあとで、先程出たあの大韓航空広報担当の若い女性が、また登場したのである。
 アナウンサーが彼女に聞いた。
「KAL機の行方は未だにわからないのですが、サハリン不時着の情報は、こういう風にソ連政府によって否定されています。これについてはどうお考えですか」
 ところが、このように問いかけられた小柄な彼女は、頬を紅潮させて一気に言い切った。
「KAL機がサハリンに不時着していることは間違いありません。私達は確かな筋からその情報を得ているのです。乗客は全員無事です。乗員も無事です」
 私は自分の眼と耳を疑ぐった。
 これは一体どういうことか。何かの確証でもあるのだろうか。信じ難いことだけれども信じたい。いや、縋りたい。どうかそれが本当であってほしい。
 私はまた、ニューヨークの大韓航空へダイヤルをまわした。深夜でも電話はすぐ通じた。
「いまCBSのニュースで見たが、KALの広報担当という女性が、まだ、KAL機はサハリンに不時着して乗客も乗員も無事だと言っている。この情報は間違いないのか、どこで確認したのか」
 しかし、電話のむこうから返ってきたのは、意外にもあまり自信のなさそうな低い声であ った。
「私達はそういう風にソウルから連絡を受けました。間違いないと思いますが、いままた確認をとっているところです。もし新しい情報が入ったら、そちらへ電話を・・・・・・」
 私は最後まで聞き終るつもりになれなかった。先程から一度も電話などかけてこなかったのに、そんなことをまた言われても、気休めにもならない。
 やはりテレビのニュースしか頼れるものはなかった。この、同じ原稿を棒読みしているようなスポットニュースの中味が変るまで、ただ待つしか手の打ちようがない。
 由香利には、とにかくベッドに入って体を休めるように言い、私は寝室から毛布と枕を持出して、つけっぱなしのテレビの前で横になった。
 深夜のしじまの中で、無気味に少しずつ時間が流れていく。
(富子、潔典、お前たちはいまどこにいるのだ・・・・・・)
 私は絶望感に打ちのめされながら、繰り返しこころの中で問いかける。
(昨日は、いやもう一昨日だ、あのローレイの空港では、お前たちは全く何時もと変らず、おだやかな笑顔を見せて手を振っていたのではなかったか)
(何かしなければならない。しかし何もすることができない。しかもここは、遠く離れたアメリカの東海岸で、いまは真夜中だ)
 スポットニュースは、その後も何の変化も伝えなかった。時計の針は午前三時を指している。前夜、あの最初のニュースを聞いた時からでも、もう八時間以上たっている。
「だめだ」
 私は呻いた。
 遂に私はこころを決めて、よろよろと立上り、由香利の部屋へ行った。
「由香利、やはり日本へ帰ることにしよう」
 私は静かに口を開いた。
「まだ絶望してはいけないが、事故である以上、ここでこのまま待っているわけにはいかない。とにかく今日の飛行機で、日本へ向うことにしよう。ここへは帰ってこれるかどうかわからないから、帰ってこない場合のことも考えて、一応みんな荷造りしなさい」
 由香利は黙って立上った。
 私は入口のドアの横にある物置の鍵をあけた。中から、物音をたてないように、春に帰国の際使うつもりで用意してあったダンボール箱を次から次へと運び出し、由香利と私の部屋にそれぞれ並べた。
 間もなく朝がくる。急がねばならぬ。
 由香利は由香利の部屋で、私は私の部屋で、黙々として、部屋にある一切のものをダンボールにつめこみはじめた。
 悲しかった。しかし、悲しみの中に浸っている余裕はなかった。
 こうして、悪夢のような一夜は明けていった。
                    第二の章終(一九八四、五、三十)

   (三)

 CBSのニュースは、遂に朝まで何の変化も伝えなかった。
 驚いたことに、大韓航空の女性広報担当者は、その後も二度も三度も登場して、「サハリン不時着、全員無事」を告げたが、私はもう、いくら信じたくとも信ずる気持にはなれなかった。
 東京からの電話もあれっきりである。少しでも状況が好転していればすぐ電話がくる筈だから、電話がこないということは決定的な意味をもつ。
 朝七時。荷物整理の手を休めて、私はK教授へ電話した。
「昨夜あれから、ソ連政府がKAL機のサハリン不時着を否定した、というニュースが伝えられました。朝までテレビを見てきましたが、その後の変化はありません。遭難は確実だと思われますので、私と由香利は今日日本へ帰るつもりです」
 K教授は、ソ連政府の不時着否定をすでに知っていたようであった。黙って聞いていたが、沈んだ声で、
「何か私に出来ることがあれば仰言って下さい」
とだけ言った。
 私は二つのことを頼んだ。まず自分の担当の二つのクラスのこと。「私の給料は返上するから、とりあえず一か月ほど代講していただくか、クラスの分散をお願いしたい。一か月たてば私の去就もはっきり決められると思う」それからもう一つは荷物のこと。「荷物はダンボールに入れたままで、荷造りは間に合わない。もし日本へ行ったまま帰ってこないようなことになれば、学生に頼んで荷造りして送ってほしい。費用はもちろん私がすべて負担する。ダンボールに入っていないもの、食糧品、家具、電気製品、自動車等はすべて差上げる・・・・・」
「承知しました」
と、K教授は短かく答えた。
「あとのことはご心配いりません。仰言る通りに致しましょう」
 八時になった。日本へ帰る飛行機を決めなければならない。
 大韓航空ならば、二日前の富子と潔典のスケジュールと大体同じで、アパートを午后一時頃出ればよい筈だ。
 あと可能性があるのは、シカゴから日本行直行便に乗るのと、ロスアンゼルスへ先ず飛んで、そこから日本へ行く飛行機に乗り換えることぐらいである。しかしその時間では、日本航空、ノース・ウエスト、パン・アメリカン等いずれもローリーからの連絡は不便で、やはりニューヨークのケネディ空港から夜の十一時五十分に出るKALの方が、ソウル経由でも結局は近道であった。
 それに、ソウルへ寄った方が、何らかの情報が得られるかもしれない。私はニューヨークの大韓航空へ電話して、その日の夜の便で私と由香利が日本へ向う旨を告げた。
 ローリーからニューヨークのケネディ空港の方へ直行する便は多くはないが、これも、午后三時二十分のが何とかとれた。
 アパートを一時半に出るとして、残された時間は約五時間。前夜からの不眠と心痛で、身心ともに綿のように疲れきっているが休むわけにはいかない。
 トーストにオレンジジュースとコーヒーの簡単な朝食を無理に胃に流しこんだあと、私はアパートの管理事務所へ行った。ひろびろとした敷地内の芝生のあざやかな緑も、一夜明けた今は、すっかりくすんで見える。
(一昨日の朝はこの事務所の前で、富子と潔典と管理人のメアリーの三人を並ばせ、記念の 写真を撮ったばかりなのに、今日は一体何ということか)
 メアリーに事情を説明して、日本に一時帰国することを告げながら、私は幾度か言葉をつまらせた。
 彼女もうっすらと涙を浮かべている。その首には、別れる時に富子からもらった小さな花模様のペンダントが下げられていた。
 帰国することを東京へも知らせておかねばならない。東京では、九月一日が暮れようとしている時間だ。義妹にあと四、五時間でニューヨークへ向うために家を出ることを伝えた。私の方と富子の実家から、あわせて四、五人、大韓航空の本社かどこかに詰めているらしい。電話連絡はとっているが、行方不明の原因は未だにわかっていないらしい、ということであった。
 私と由香利は、また黙々と、それぞれの部屋で荷物の整理を続けた。
 本来なら何日もかけて荷造りするところを、数時間でとにかく一応はまとめてしまわなければならない。アリゾナから引越してきて間もなくのことであったし、しかもアリゾナで荷物の一部は日本へ送ったりしていたので、いくらか荷は軽くなってはいたが、それでも、悲しみの中での荷物整理は骨身にこたえた。
 昼近くになって、大韓航空からはじめて電話が入った。しかしそれは、ニューヨークではなくて東京の支店からで、日本語であった。
「大変な事故を惹き起こしまして誠に申しわけございません」
 相手は、まず丁寧な口調で謝った。それからところどころで「誠に申しわけございません」をくり返しながら、ニューヨークのKAL支店では航空券は買う必要がないこと、ケネディ空港に着いたらKALのカウンターへ行ってほしいこと、私と由香利が行くことは東京からも連絡してあること、などをひどく恐縮した調子で私に伝えた。
 私はまた暗い気持にさせられてしまった。
 東京の大韓航空が丁寧に謝ってばかりいるということは、それだけKAL後の乗客の運命に希望が持てないということではないのか。私は、だんだんと自分が、悲劇の核心に引きづりこまれていくような胸苦しさを感じていた。
 おそらく悲しみにも、表皮のような部分があって、それを剥がされると今度は生身の悲しみがむき出しになってくる。私の悲しみもこのKALからの電話で、漠然とした表皮の悲しみから、一段と深い生身の悲しみに変ってしまった。
(死ぬな、死んではならん)
と、はじめて「死」ということばの冷たい響きに慄然としながら、こころの中でくり返した。
 KALからの電話で失望の色を深めた私を見て、由香利も同じ思いだったのであろう。
「かたわになってもいいから生きていてほしい」
とぽつんと言った。

 正午のニュースでも、「KAL機行方不明」のままであることを確認して、テレビのスイッチを切った。
 一時頃、K教授が来て空港まで送ってくれることになっていたので、あとはK教授が来るのを待つだけである。
 外は相変らず暑い筈なのに、室内は冷房が利いて涼しい。壁にかけてあった時計や絵や地図などもすべて外して、部屋が広くがらんとしているだけに、寒々とした感じさえ与える。
 このアパートにも、もう一度戻ってくることがあるのかないのか。私は前々日まで家族四人で過したこの二LDKのアパートの中を、隅から隅までゆっくりと見てまわった。
 入口のドアから入ると、リビングルームの右手の奥に通路を挟んで寝室が二つ向い合っており、右が私ので左が由香利の部屋だ。私は自分の部屋に入ってスタンドのコンセントを外し、カーテンを閉めた。
 部屋の隅には一応整理の終ったダンボールが積重ねてあって、クローゼットも空になり、ベッドもシーツを外してむき出しになっている。
 とりあえず持って帰るのはスーツケース二つだけで、忘れものがないことを確かめてドアを閉めた。
 その位置で、開け放たれたドアを通して、由香利の部屋の奥のベッドが眼に入る。そこでまた、私にとっては忘れることの出来ない一つの情景が胸に迫ってきた。

 それは、富子と潔典がローリーを発つ二、三日前の昼下りのことである。その日の外はことのほか暑く、私たちはみんな冷房の利いた家の中に引きこもっていた。
 私は一人、寝室で寝ころびながら、新しくつけかえた自動車保険の契約条項に眼を通していた。
 アメリカでは州ごとに法律が異なるので、アリゾナでかけていた保険もノース・カロライナでは適用されないことがある。だから引越したら新しくかけ直すわけだが、そのために手続きしたローリーの代理店から、新しい保険書が届いていたのである。
 富子と由香利はリビングルームでおしゃべりしているのが聞こえる。潔典はアパートの裏庭にあるひょうたん型のきれいなブールで一泳ぎして帰ってきて、向いの寝室にいる筈であった。
 静かで物音がしないのは、昼寝か勉強か。彼はこのアパートにいる間も、時々由香利の机に向ってはギリシャ語文法の本を読んでいた。
 私はお茶でも飲もうと思って立上り、部屋を出ようとしてドアのところまで行った。向いあった潔典のいる部屋のドアは開け放たれていて、潔典がベッドの上に横になっている。こちらを向いていた。リビングルームの方へ歩きながら、その潔典の横になっている姿がちらっと私の眼の中に入ったのだが、その時不意に、わけもなく、一つの気配を感じたのである。
(潔典が怯えている・・・・・・)
 瞬間的に私のいわば第六感に響いた感じで、それも決して強いものではなかった。
 私は潔典にはなんでも気軽に話しかける方だが、その時は足を止めるほどはっきり意識したわけでもない。しかしそれにもかかわらず、あれはまぎれもなく、「怯え」であった。何故かはわからないが、それはそうであった。ただその時は、深くは意にもとめず、すぐ私の意識からは消えてしまっただけである。
 大体、深典が「怯え」なければならなかった理由などある筈はなかった。深典の明るい性格には暗いイメージの「怯え」はおよそ結びつきそうには思われなかった。私の気の迷いに違いない。
 そんな私の常識が、あの時の一瞬の感じを打消してしまったのであろう。
 このことはそのまま忘れていたが、実は、テレビでKAL機の行方不明が伝えられたあと、しばらくして由香利が言ったことばで、愕然として私は思い出したのである。
 やはりローリーを出発する何日か前、
「お姉ちゃん、大韓航空って大丈夫なんだろうか」
と、潔典が聞いたのだという。
 そういえば、その前であったか後であったか、リビングルームでみんなでおしゃべりをしていた時、どういう話のきっかけであったか、潔真が、
「真直ぐ成田へ直行しないのは面倒だな」
と大韓航空のことを言ったことがあった。
 私はその時、
「ただでソウルへ寄れるのだからいいだろう。お父さんならよろこんでそんな飛行機を選ぶな」
と答えた。
 私は割合海外旅行の経験は多い方だが、ソ連などの自由のきかない国は別として、たいていどこへ行くのにも、到着地のホテルの予約もしないで飛び出す。着いてから一人で歩きまわって安ホテルを探すのである。
 苦労することもあるが、その方が何かとその国の国情を理解するのに役に立つ。「何でも見てやろう」式の私のそういうやり方を、潔典はよく知っているから、別に異をとなえることもなく、その時の話もそれで終ってしまったような気がする。しかし潔典は何か漠然とした不安を感じていたからこそ、由香利にもそのようなことを聞いたのであろう。
「アリゾナの学生の中には、大韓航空はいやだという人もいたけど、大韓航空はパイロットの技術が優秀だし、大韓航空にしか乗らないという学生もいるよ」
と、由香利は答えたらしい。
 それを聞いて潔典は
「助かった!」
と言ったそうである。由香利はその時の潔典の声色を真似してみせた。調子外れである。
「助かった」という言い方はおかしい。潔典のことばらしくもない。
(やはりあの子は何かを感じとっていたのだ)
 潔典の本能が、身近に迫りつつある危険をあの時、予知しはじめていたのではなかったか。
 そう思うと、あの一瞬の感じが、今更のように一本の鋭い針となって私の胸に突刺ってくる。
(鈍い私が気がつかなかっただけなのだ)
 第六感といっても、それだけで未来を予見するのは無理だといえるかもしれない。しかし私には、どうしても自分自身にそう納得させることのできない後悔が残る。
 私はあらためて潔典が横になっていたベッドをしみじみと眺めた。
 シーツもはがされてむき出しのままになったベッドには、もう潔典のあたたかい体温は感じられそうもなかったが、私はその寒々としたベッドに向って、自分の鈍感さを手をついて謝りたいような気持に駆られていた。

 一時きっかりにK教授はやってきた。
 寝室の隅に並べたダンボールの数を確認し、ドアのかぎ、メイルボックスのかぎ、それに車のかぎを預かってもらってK教授の車に乗り込んだ。
 二日前に、私が富子と潔典を送っていった道を、今度は私と由香利がK教授に送られて通っていく。
 車の中では、K教授も私もあまり口を開かなかった。
 外は摂氏では三十度を越える暑さであったが、窓をしめ切って冷房を利かした車の中には静止したままのような空気が澱んでいる。ことばが飛交うには空気が重すぎた。
 昨年のアメリカは不景気で、そのためにどこの大学もほとんど軒並みに予算削減で苦しんでいた。私が前にいたアリゾナ大学もそうであったし、ノース・カロライナ州立大学も例外ではなかった。そういう状況の中で、かなり無理して、私を客員教授として招いてくれたのがK教授だったのである。
 アパートを出る少し前、私が管理人のメアリーの所へ留守中の連絡のことで行っている間、K教授は由香利に、
「私があなたのお父さんをノース・カロライナにお招きしなかったら、こんなことにならず にすんだかもしれませんね」
と、しんみりして言ったそうである。
 東京の新聞特派員の友人にわざわざ問合わせて、「全員無事」の電話を私にしてくれたのも裏目に出てしまった。
 K教授は自分なりに、私に対する責任のようなものを感じていたのであろう。アムステッド州立公園の前まで来て、私が、「つい二、三日前、みんなでここへ来てバーベキューをしたばかりです」と言った時も、黙ってうなづいていただけであった。
 ローリーの空港でK教授とも別れ、二日前富子と潔典が帰った時と同じように、ユナイテッド航空でスーツケースを預け、ラウンジへ向った。
 三十分ばかりの待ち時間の間、私はほとんどじっと座ったまま眼を閉じていた。由香利も隣りに座って沈黙を守っている。
 ニューヨーク・ケネディ空港への直行便に乗ってからも、私たちはほとんどことばを交わさなかった。
 黙って祈るしかなかった。私がそうであったように、由香利もきっとこころの中で、母と弟の無事を念じ続けていたのに違いない。
 飛行機はDC8で、ほぼ満席に近かった。ローリー・ダーラム空港を飛立ったあと、バージニア沿岸に出て、あとはほぼ一直線に北上しているようであった。
 左の窓ぎわに由香利、次に私。私の隣りには中年の金髪の女性がペーパーバックの小説か何かに読みふけっている。
 前夜は一睡もしていないし、身心ともに疲れきっている。しかしそれでいて眠ることができない。
 うつらうつらしかけてもはっと我に返る。
(どうか無事でいてくれ)
 頭の中にはそのことしかなかった。そのことを念じ続けるだけで、二時間半の後、飛行機はニューヨーク・ケネディ空港に着陸した。

 国内線ターミナルから国際線ターミナルへはバスで連絡していて、自分の乗る航空会社の名前を言えば、その前で降ろしてくれる。
 私たちの乗ったバスの黒人運転手は、底抜けに陽気で、広い空港内を走っている間、歌うような調子の早口でじょう談などを言い続けては乗客を笑わせていた。
 しかし、私も由香利も笑うどころではなかった。KALの前で降りた時も、私たちの顔は苦痛で歪んでいたかもしれない。
 KALの出発便カウンターは二階にある。スーツケースを転ばせながら二階へ上っていってみたら、KALのカウンターのあたりには十数名のカメラマンがたむろしていた。
 出発までにはまだ五時間近くもあったから、KALの係員はまだ一人もいなかったが、カメラマン達はチェック・インの模様などを取材しようとして早々と待機しているらしい。
 私と由香利は、カメラマンの群からなるべく遠く離れて椅子に座った。私たちが○○七便に乗った家族の安否を気遣って日本へ帰るところだとわかれば、その瞬間からカメラの放列にさらされていたに違いない。
 しばらくしてKALへ電話をかけに行った。
 KALのカウンターの斜め前、カメラマン達が群がっている場所からちょっと離れた所に公衆電話が五、六台並んでいる。
 潔典が、無事ケネディ空港に着いたという第一回目の電話をかけてきたのは、おそらくそのうちの一台からであったろう。電話器の前に立つと、つい二日前、ここに立ってノース・カロライナへ一所懸命にダイヤルをまわしていた潔典の姿がありありと眼に浮かんでくる。その時、富子もこの辺にいたのに違いない。
 ダイヤルに指をかけてまわしているうちに、ダイヤルの数字がふと涙でにじんだ。
 電話に出たKALの社員は、私と由香利がいる場所を確認すると、「すぐ行くからそこでそのまま待ってくれるように」と言った。
 やがてKAL社員らしい若い男性が一人やって来た。目ざとく私と由香利を見つけると、ぴょこんと一つ頭を下げ、KALのマークの入った名刺を差出して自己紹介したあとで言った。
「少し時間がありますからホテルへご案内いたします。食事もホテルでとって下さい。航空券の手配はすんでいますからご心配はいりません。出国手続きも私たちの方でいたしますから、あとでパスポートを・・・・・・」
 私は途中で遮るようにして「ホテルへは行かなくともよい。食事もいらない」と答えた。大韓航空の社員に親切にもてなされるのが、何か釈然としない気持であった。「荷物だけ預かってもらえれば、この辺に座って待っていることにする」とつけ加えた。
 彼はちょっと困ったような顔をして、
「それではKALの部屋がありますから、そこへご案内しましょう」
と言った。
 カメラマン達のいるKALのカウンターの前とは反対方向に歩き出して、何度かくねくね曲ったあと、まずKALの空港事務室へ連れていかれた。
 そこでパスポートといっしょに、スーツケースや手荷物も預けて身軽になった。
 ガラスの仕切りに遮ぎられて見えなかったが、奥の方ではテレビをつけっ放しにして、何人かでニュースを見ているらしい、ちょうど事務室を出ようとした時、いきなり私の耳に、
「……KAL機…… shot down・・・・・・」と言っているのが聞こえてきた。
(shot down?)
 これは「撃墜」ではないか。KAL機を撃墜したというのか。誰が?何のために?私はこれがどういうことなのか想像もできなかった。
(由香利もあの部分を聞いてしまっただろうか?)
 ちらっと見た由香利は、青白い顔をして黙りこくっているだけである。
 私は、由香利の前では、この「shot down」を確認したくはなかった。KAL社員のあとについて黙って歩き、私たちはVIPルームに案内された。
 VIPルームはかなり広くて、百平方メートルくらい。中には誰もいなかった。
 入口近くの片隅がカクテルバーになっていて、別の片隅にはソファーの前に大きなテレビがどっかりと据えてある。しかし由香利のいるところではスイッチを入れて、ニュースを聞いてみる気はしなかった。
 テレビを見なくても、もしいいニュースが入れば、KALの社員がすぐ知らせに来るだろう。KALの社員が知らせにこれないニュースはすべて悪いニュースに決っている。それならばもうそれを、ここでは聞きたくはない。
 これ以上、悲しみとかショックに耐えるには、さらになにがしかのエネルギーが必要である。しかしそのエネルギーは、私にも由香利にももう残っていなかった。
 やっとケネディ空港にたどりついて、KALのVIPルームのアームチェアにぐったりと体を沈めた時には、私も由香利も、体力と気力をほとんど使い果していたのである。
 二、三度、女子社員が入ってきて、夕食や飲物のサービスを申し出たが、私たちはサンドウィッチを少しとコーヒーだけで、あとは辞退した。
 十時を少しまわった頃、私はアメリカでの最後の電話をマサチューセッツ州ファーストの上田君のところへかけた。
 彼は私の大学の同じ学科の優秀な助手で、私と同じ頃、フルブライト留学生として渡米し、マサチューセッツ大学で言語学を専攻していた。
 昨年の八月五日、富子と潔典をケネディ空港で出迎えた私と由香利は、そのまま北上して、この上田君のアパートの二階で、一家四人、三日間過ごさせてもらったのである。
 上田君は温厚な人柄で、ピアニストの奥さんと生れたばかりの赤ちゃんの三人で、私たちをこころから歓待してくれた。
 特に言語学専攻を目指していた潔典は、上田君とすっかり意気投合していたらしい。夜の更けるのも忘れて、バーボンを飲んだりして語り合っていた。上田君の案内で、日本では手に入れることの出来なかった言語学の原書をアマーストの本屋で見つけて、「これだけでもアメリカへ来た甲斐はあった」と潔典は喜んでいたのである。
 秋の感謝祭の休暇には、今度は私たちが上田君一家を招待して、ローリーまで来てもらうことになっていたが、こんな事故が起こってしまってそれも駄目になった。
 電話で私はまず、感謝祭休暇に招待できなくなったことを詫びた。それから、富子と潔典が貴重な三日間を過ごさせてもらったことへの礼を言おうとした。しかしそれは最後まで続かなかった。
「君のところへ行ってよかったよ。ワイフが感謝していた。潔典も喜んで・・・・・・」
 私はそこで絶句したまま、懸命に鳴明をこらえた。そのあとはどうしても声にはならなか った。私はとうとう受話器を置いてしまった。
 事故発生のニュースで衝撃を受けて以来、こらえにこらえてきたものが、はじめて一度にあふれ出てきて、電話の前で声を押し殺したまま、私は激しく泣いた。
                    第三の章 終(一九八四、六、十六)

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