Ⅳー13:二人の想い出:梨本キク (武本富子の伯母)
私が最後に富子さんにお会いしたのは、昨年の二月十二日、その朝高田は白一色の雪であったが、東京は曇り空の寒い日でありました。
度々の入院を繰返しておった姉が亡くなり、三度上京した時の事でした。
その後富子さん、潔典さん、良子さんと私の四人は、まだ姉の面影のただよう二階のお部屋でやすませて頂く事になったのです。
富子さんは、しっかり者で良く気のつく、几帳面な人でした。後でわかったのですが、私のお布団の中にいつの間にか、あんかを入れ、ほどよい温かさにしておいて下さいました。二人の姪は何くれとなく心づかいしてくれました。
思いがけない病に冒されあの世へ旅立って行った母を想い、夜の更けるのも忘れて、語ってくれました。
発病以来病院へ通い、退院の折は杉並の家へ見舞ったり、再入院した時も、由香利さん共共よく慰めて下さいました。
アメリカの由香利さんからのクリスマスカードと幾通ものお手紙等も見せて頂きました。それから潔典さんのアルバイトしておられる事、お父さまからは無理なアルバイトせず、一人位にしておくようおっしゃっている事等、色々お話して下さいました。
潔典さんはとても純真で明るく素直なお子様です。母子の会話を聞いて居りましても、信頼しているお母さんと、可愛い坊やと、いったところでしょうか。屈託がなくて、それでいて頼りがいのあるお子様です。
そばで聞いていて、ほほえましく感じたものです。
そして富子さんは一枚の紙に家族のお名前から大学名、御住所等くわしく書いて下さいました。お話はなかなか尽きませんでしたが、私は翌日高田へ帰る予定でありました。「叔母さん明日上野まで是非私達にお見送りさせて下さいね」「よろしくお願いしますよ」とお約束致しました。そしてあしたを楽しみながらみんな眠りに入ったのでした。
翌日朝の食卓を囲みました折、富子さん達のお疲れの様子を見て、二人の男達が上野まで 送って下さる事になったわけです。
車に乗りました時「叔母さま、母の分まで長生きして下さいね」といつまでもいつまでも手をふって別れを惜んで下さいました。“もっともっとお話致しましょう”と隔れがたい御様子でしたのが、今でも私の脳裏からはなれません。今にして想えばあれが最後となってしまったのですもの・・・・・・
あれから六ヶ月後アメリカで親子四人楽しい休暇を過されました。一ヶ月の楽しい想い出の数々を胸にいだきながらの帰途、あの無惨な事件に遭遇されようとは誰が予測し得たでしょうか。私は運命のいたづらに、人の命のはかなさに、ただぼう然とするばかりでした。一瞬にして二六〇余名の方々の貴い命を奪ってしまったのです。
“富子さん、潔典さん、安らかにお眠り下さい”そして天国のお父さま、お母さま、おぢいさま、おばあさまのおそばで、いつまでも……
ひたすら御冥福をお祈りするばかりでございます。
逝く春や、憶い出悲し、北の海
合 掌
一九八四、五、二〇