Ⅳー12:今も生きつづけている二人:山本忠雄(武本富子の弟・潔典の叔父)

 姉の富子は、その日その日を精いっぱいに暮らしていた。
 一九八二年十一月から約三か月間、胃ガンで入院中の母のベッドのそばに附添い、翌年二月九日に亡くなるまで母を元気づけた。
 姉は至って気丈夫であったが、母の死は彼女にとって大きな痛手でありショックであった。しかし日がたつにつれて何とかショックからも立直り、約五か月の後ようやく心の整理もできて、愛息・潔典といっしょに、夫と娘の待つ米国に行く決心をした。
 母の死は避けられなかったものであり、いつまでも悲しんでばかりはおられず、将来に向かっての彼女の生き甲斐を再確認しようとしたのである
 私が彼女の米国行きの準備をしていることを知ったのは、母の四十九日もとっくに過ぎた七月に入ってからであった。はっきりした出発日はまだ決まっていなかった様子で、大韓航空の予約をしているが夏休みシーズンでなかなか切符がとれない、との電話が私の家にあったからである。
 私は、それならばと私の勤務先に出入りしている三井航空の中村さんという人を紹介し、大韓航空をやめて、ノース・ウエスト、日本航空、パン・アメリカンいづれかのフライトを とることをすすめた。大韓航空に対しては、数年前の航路逸脱によるムルマンスク事件、ソ ウルの飛行場での大韓航空機の火災、あるいはほとんど中古機を使っていることなどの非常に悪い印象が残っていたからである。
 それでもどうしても利用せざるをえないようになってしまったら、たっぷり保険に入っておいた方がよい、などとも言ったが、これは一笑に付されてしまった。とにかく七月末頃、大韓航空の座席がとれそうなので八月初旬に渡米するという連絡をうけたのである。
 今から思えば、何とかノース・ウエストか日本航空かパン・アメリカンに無理やりでも乗ってもらうべきだったと後悔している。これらのフライトならば、少なくとも今回の事件のような、常識では考えられない航路離脱はおこりえなかったにちがいない。

 ともあれ姉は、以前住んだことのある米国で八月初旬から八月末日までの約一か月間、一家水いらずの生活が送れたことはこの上もない幸せであった。何年ぶりかの米国生活で、今までの看病疲れもある程度はほぐれたであろう。
 八月三十一日、運命の飛行機に乗る前の姉は、心の中で、二人の子供たちの成長を見届けつつ、やがては札幌で又団欒の楽しい日々を過すという絵図をえがいていたに違いない。それを米ソ超大国は、自らの軍事的エゴのために、姉と甥を含めた何の罪もない乗客すべての生きる権利を一瞬にして奪ってしまった。肉親の一人としては誠に痛恨の極みである。

 姉は至って米国が好きであった。私が仕事の関係で米国に駐在していた一九八○年六月、札幌にいた姉に米国みやげを送ったことがある。彼女は大へん喜んで、私の子供達にそれぞれ絵本を送ってくれた。それらの絵本は今でも大切に持っている。
 又、いつも私のこと、妻のこと、子供達のことを気遣っては手紙をくれた。その中で、次のようなことを書いていたのが忘れられない。
 「明日のことはわからない。だから今日一日一日をしっかり生きていきたい」
 「人間で一番大切なことは一日一日を誠実に生きること」
 このようなことばを残した姉は、愛息とともに私達の前から姿を消したまままだ戻ってこない。
 今頃二人とも、サハリンの深い海底で永遠の眠りについているのであろうか。いや、やは り二人は、今もなお私達の心の中に力強く生き続けているのである。
 あの優しい笑顔のノンちゃん(潔典)にも、こう語りかけずにはいられない。
 「ノンちゃん、いったい何時帰ってくるの。君と飲もうと約束したバーボンも君の帰りを待っている。あのパイプタバコも君にもう一度吸わせてあげたい。早く帰ってきて、又あの笑顔で、アメリカ旅行の話でも聞かせておくれよ・・・・・」

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