Ⅳー9:兄の思い出:広瀬醇子 (小林正一妹)

 「オニイちゃん」と大声で呼んでみたくなる私。還歴に手が届きそうになっていても唯一人の兄、たった二人だけの兄妹ですもの。事故当初は、ひょっとしたら雲のじゅうたんにでも乗ってフワフワしているのではないかしら、世間のみんなに騒がれて帰りづらく、ヒッソリ別荘にでもいるのではないかしらと、穂高と富士見へ電話を掛けてみたり、『全く正気の沙汰でもないわよ。』と自分に云い聞かせ乍らもダイヤルして見たくなる私でした。
 兄は幼い時から皆に好かれる優しい心の持主でした。そして色々の事をやって見るのがとても好きでした。小学校の頃、昔の事ですからカメラは一円で買うことが出来ました。写したものを現像液につけたり定着液につけたりして全部自分で仕上げ、家族やお友達にもあげてよろこばれていました。お金や品物が不自由な時は、あり合せの部品を集め組合せて何とか聞えるラジオを作り、私達にもよく聞かせてくれていました。ずい分昔の事ですから、当時ラジオのある家は殆んどなく、レシーバーを耳に当て一人でしか聞くことが出来ませんでした。近所のおばさんも、面白いのがある時(番組)は知らせてね、と楽しみにしておられました。ある時、コイルをしっかり巻きつけて小さいモーターを回してみたり、アルコールランブで塩水を煮つめてみたり、試験管に色々の液(野菜や果物のしぼり汁)を入れてリトマス試験紙で反応を調べたり、虫や花粉等を顕微鏡でしらべたりしているかわいい研究室?を険しい顔つきでのぞいた見知らぬ人が、「もの好きな子やな。」といい乍ら珍らしそうにしばらくそこで見て帰って行きました。実は何かとがめに来たらしく、でも中を見ても何もあやしくなかったので物好きな子とだけ云って帰ったという事でした。兄は本を読んだり、簡単な実験のような事をするのが小さい時から大好きでした。
 高校(旧制中学)は家から四K程の所にありました。四K以内の地区は徒歩というきまりがあり、五年間重いカバンを肩に掛け歩いての往復でした。そのお蔭で、「足は若い人より強いよ。」と自慢していました。本を読むのが好きで、学校からの帰りは何時も読書しながらでした。最近は車も多く交通がはげしいけれど、その頃は殆んど歩いている人ばかりでした。小学校の先生に二宮金次郎のような中学生と云われた事もありました。兎に角本を読んだり研究することが好きでした。
 今回も自分のやっている「希土類金属・合金・化合物の電子構造に関する研究」のためアメリカへ出張し、帰国途中の出来事でした。丁度一年前の夏、中学時代の同窓会を兼ねて久し振りに私の家へも来て、研究している事、アメリカへ行く事になるだろうとの話等沢山聞かせてもらいました。およそかけ離れた職業の私には、簡単に説明してもらっても分るはずもないのに、分ったかぶりに合槌を打ったのも今となってはいい思い出になっています。

 やりたかった研究も軌道にのり、あんなに喜んで出掛けて行ったのに・・…..

 日本国土も間近という地点で、何という悲惨な出来事でしょう。やさしく親切であったあなたのこと、きっとあの世でも同じ境遇の人達と共に手をとり合い助け合って仲よく幸に過して下さい。

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