Ⅳー8:母に告げて:広瀬醇子 (小林正一妹)

 六月から三ヶ月間、研究のためにアメリカへ行く事になったのでその間預ってほしい、と云う事で母は私の家へ来る事になりました。高齢の母は、息子夫婦の帰りを一日千秋の思いで、色々の土産話を楽しみに待っていました。
 悪夢のような九月一日、テレビニュースで大韓航空機○○七便が突然レーダーから消えたとの報道、日本人乗客に兄夫婦の名前があり、何かの間違いであってほしいと願った。「サハリン強制着陸」説にほっとしたのも束の間、撃墜説が濃厚となり、情報は二転三転、大韓航空大阪支店に問い合せてもあやふやな返答。情報の一部始終を明治三十二年生れの老母に聞かせる事をためらい、新聞も、私達は読んですぐ整理箱へたたみ込んでいました。帰国予定の日が過ぎても何の連絡もして来ない息子夫婦、安否を気遣って尋ねてくれる親戚知人から掛けてくる電話の回数も平常より多く、ベルが鳴る度に会話にも耳をそば立て、内容を聞き正すようになりました。
 何時迄もかくし通す事も出来ないし、三日目にやっと聞かせる事にしました。半信半疑の母は取り乱した様子もなく静かに自分の部屋へ戻り、新聞紙上の息子夫婦の写真を見て、「氏名は一緒だけれどこの顔は違う違う。」と信じたくない一心で否定していました。優しかった息子夫婦の事故を信じたくない気持を察し涙したものでした。
 此頃では、東京にいる孫から送って来た遺影を部屋に飾り、話しかけるように、幼い頃一緒に歌ったであろう「「故郷」、夢は今もめーぐーうりーて忘れがたき・・・・・・」と、又「岸壁の母」等も時々口ずさみ乍ら、東京にいる二人の孫が寄こしてくれる手紙を唯一の楽しみに、又近親者の暖かい励ましの言葉に感謝し乍ら余生を過しています。
 それにしても、大韓機が正規のコースを飛行していればこのような大事故はなかったのに、と悔まれてなりません。大韓航空側の誠意ある態度を期待してやみません。

Follow me!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA