Ⅳー6:井草の別れ:沢田二郎 (小林郁子弟)

 西武新宿線の下井草駅から歩いて約十分の所に日本基督教団井草教会がある。この教会で、昭和五十八年六月十二日(日)の午後、教会の創設者、小塩力牧師(岩波新書「聖書入門」の著者)の没後二十五周年記念会が催された。私の親や兄姉が四十数年前に長崎県の佐世保教会で小塩牧師にお世話になった関係から私も案内を頂き、家内と長女を連れて出席した。行って見ると、姉、小林郁子も出席していた。彼女は戦時中、女子大在学中に井草教会の前身である井草聖書研究会によく出席していたようである。
 記念会には四十年も逢っていなかった佐世保教会時代の数名の先輩や、戦後の混乱時代に広島教会でお世話になった四竈一郎牧師も見えていた。会が終った後、これらの方々と久々の挨拶を交すことができた。
 姉と私の家族は教会の門を出て下井草駅に向いながら、姉の夫・小林正一が勤務先の日本大学の御好意でアメリカ・アイオワ州のエイムズにある大学に六月から勉強に行っていて八月末まで滞在すること、現地では大学関係者の家庭に屢々招かれていること、姉も勤務先の女子学院が夏休みに入ってから一ヶ月位エイムズに行き、お世話になった方々を天婦羅でもてなしたいこと等の話を姉から聞いた。
 それから私達が結婚後間もなく住んでいた下井草駅近くのアベートを二十数年振りに見ようと言うことになり、姉も一緒になってやっと探し当てることができた。お互に当時のことも懐しく想い出した。
 下井草駅で姉は新宿行の電車に乗り、私達は反対方向の電車に乗った。別れた後になって家内が、姉は家に帰っても一人の筈なので、留守番をしていた次女を電話で呼び出して新宿で姉と一緒に食事をすればよかった、と言って悔んでいた。
 それから一ヶ月以上たった七月二十日頃、夏の贈り物のお礼に府中の姉の家に電話した。話がアメリカ行きに及び、七月末に大韓航空機で行くことを聞いた。その瞬間、私は五年前のムルマンスク事件を想い出してそのことを姉に告げ、またソ連軍に撃たれはしないだろうかと言った。しかしすぐその後で、一度事故を起こしたのだから会社も用心していて却って大丈夫かも知れないと、自分に言い聞かせるように言った。
 家内は姉の出発を成田まで見送りに行くと言い出した。私は沢山の人が気軽に海外へ旅行するこの時代に見送りでもあるまいと言った。また、この年の夏の異常な暑さの中を成田まで往復して体でも壊しては大変だ、とも言った。家内は他の急用ができて結局は見送りに行けなかった。
 八月は連日の猛暑で疲れたせいか月末には微熱が続いた。九月一日には私は勤めを休んで近くの病院で診察して貰う積りで何時もより遅目の朝食をとり、テレビのスイッチを入れると、ニュースでアンカレッジから京城に向う大韓航空機一便が明け方からサハリン近くで消息を絶ったと報じた。
 私は急いで姉の家に電話したが通じなかった。姪の伸子の家に電話した処、姉夫婦は消息不明機に乗っている筈だとの返事で驚いた。それから種々のニュースが飛び交ったが、撃ち落とされているとは思われなかった。そんな気持で病院に出かけて行き、受診後、待合室で薬が出るのをテレビを見ながら待っていると、消息不明機はサハリンに着陸しているとの字幕ニュースがあった。
 家に帰って見ると家内も同じニュースを見てホッとしていた。姪からも同様の電話があったそうである。私達は、姉夫婦が二―三日、長くても一週間位遅れて帰国できるだろうと考えた。しかしホッとしたのも束の間で、間もなくテレビはサハリン着陸説を取消し、夕方迄には遭難が略確実視されるに到り、搭乗者の氏名と顔写真も繰り返し報道された。その中には小林正一・郁子の名も認められ、事態は殆んど絶望的となった。
 姪の家には甥・啓一郎もやって来て一緒にニュースを聞いて心配しているが、二人とも大韓航空東京支社にはマスコミが大変だから行きたくない、と言うことであった。夜に入ってから、兄が勤務先から姪の家に直行して、全く望がない訳ではないと姉弟を励ましたとの連 絡を受けた。
 九月二日(金)の朝は、前日の緊張のせいか、あるいは医師の薬が効いたのか、微熱もひいた感じで、甥からの電話で八重洲富士屋ホテルに赴いた。姪の主人と甥と兄もやって来た。愛する肉親を失った人達の悲しみと怒りの叫びが集まった人々の間に湧き起こったが、数名の方々の提案によって家族の会が結成され、これが遺族の会の前身となった。
 九月八日(木)の午前中には首相官邸に家族の会の陳情が行われた。中曽根首相は国会開会中のため藤波官房副長官(現長官)が代って陳情を受けて下さった。何人かの方々が種々の立場から政府の支援をお願いした。
 私は事故の原因究明の種々の面からの実施をお願いした。副長官は夫々の訴えを首相に伝え、努力するような返事をされたように記憶している。
 原因については、ソ連機によって撃ち落とされたことは明確になった。アメリカも韓国も日本も国連総会でソ連の行為を非難したが事態は何も変っていない。民間機を撃墜したソ連もソ連であるが、二度もソ連領内に飛行機を飛ばして二度ともソ連機に撃たれた大韓航空も大韓航空である。
 ムルマンスク事件後、各機に新しい装備がなされ、出発前にセットしておけば操縦士は目的地上空迄何もしないで行けるようになっていたとの説明が新聞に出ていた。韓国の監督官庁は、新装備をするだけで大韓航空の事後処置を善しとしたのだろうか。コンピューター時代とは言え、操縦・運行・現在位置の確認等に関する遵守事項の新設・改訂なども当然あった筈である。こうした面の実行に関する指導・監督を韓国政府はムルマンスク事件以後、大韓航空に対してどのようにしてこられたのであろうか。また今回の事件以後、大韓航空に対して韓国政府はどのような調査をして、どのようなことがわかっているのであろうか。
 日本を始め被害者を出した国の政府は勿論、前記の事項を含んだ問い合わせなり要求を韓国政府に出されたとは思うが、その情況は国民や遺族に報告できる段階には来ていないのであろうか。「二度あることは三度ある」と言わないで済むように、政府の一層の力添えをお願いしたいものである。

 敗戦の翌年の昭和二十一年四月、姉は広島女学院に就職し数学教師としてのスタートを切った。二十歳であった。職業軍人であった父は職もなく、恩給の望も絶たれ、食糧不足を凌ぐために原爆による焼け跡を耕す毎日であったので、最初は姉の働きが唯一の収入源であった。
 昭和二十三年に母が亡くなってからは主婦の役も果たし、二十四年五月に小林正一と結婚後も引き続いて我が家に一緒に住み、妻の役が更に加わった。同年私が大学に入学してからは、四年間の仕送りの半分は姉から出た。このことを快く認めていた義兄・小林正一の暖い心には今も感謝している。二十五年には長女・伸子が生まれたが学校勤務は続け、昼間は老いた父が不器用な手つきで孫に哺乳ビンでミルクを飲ませ、おむつを替えてやった。当時のインフレ亢進の世の中では夫婦共稼ぎでも楽ではなく、昔母が姉のために仕立てさせた和服が何時の間にか伸子の粉ミルク代に化けていた。二十八年二月には軍人恩給復活の報を聞きながら、それを現実に自分の手で確認することなく父が亡くなった。私も社会人となり、姉夫婦にとって漸く小林家の生活が始まったのではなかったろうか。
 大学の助手であった義兄は、教授が担当する実験を基盤とする物理学から理論物理学へ百八十度の転向を図った。そのために学問の師を他に求めなければならず、毎年、春と夏の休みには約一ヶ月ずつ広島から上京して、東大の物性研究所の武藤俊之助教授の許へ通って勉強した。この勉強は七一八年は続いたと思う。勉強好きの義兄だからこそ続けられたことではあるが、それを支える者がいたことも見逃せない。
 昭和三十四年春、武藤教授の計いで義兄は日大・文理学部に招かれ、物理学教室の創設に参画した。姉は上京してからも教師の道を歩んだ。府中の家では母・小林りん、長女・伸子、長男・啓一郎の五人家族の平和な生活が二十数年も続けられて来た。その生活が国際的緊張のスパークで突然に断ち切られるとは一体誰が予測し得たであろうか。また誰がその責任を問われなければならないのであろうか。
 私の大学時代の友人は姉の憶い出として、「大学の寮へ手製のクッキーをよく送って下さった」、と私が忘れかけていたことを想い出させてくれた。
 女子学院の職員室では、姉の坐っていた机には長い間新に坐る人もなく、誰彼となく縫い ぐるみをその机の上に置いて下さり、中には「小林さん、貴女いつまで休むつもり?」と生きている者に話しかけるように声をかける方もあったと聞いている。

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