Ⅳー5:姪の死を悼む:宮岡 要 (河野富子伯父)

 大韓航空機がソ連軍用機に撃墜さるとのテレビ放送の凶報は、一瞬にして二六九人とその家族の運命を明から暗に変えてしまった。併も邦人二七人の間に、私の姪河野富子が搭乗していようとは想像だにしていなかった。ニューヨークで共に英語の勉強をしていた友達の話によると、九月一日に日航機で帰国の予定であったのを、態て大韓航空機に切り替えて帰国の途についたとの由、弟夫妻や本人の姉妹弟達の無念と悲しみは察するに余りあるものであった。私の末女靖子と同級生の故もあってか、富子は小・中学校の帰りにたびたび姿を見せ、理ハツで健康そのものの明るい笑顔は今も忘れることは出来ない。
 私も九月四日に上京し、帝国ホテルにて先発の弟等に合流し、大韓航空(株)東京支店店長李氏他職員と接触し、惨事の実態を知るべく会合を持ったが、実に不手際不親切で、誠意が見られなかった(ソ連に責任を持って行く方針がうかがえた)。私は既にその時、諸般の解明につき前途の困難さを感じた。その後ソ連側は依然として黒いベールに包みこみ、遺体、遺品の捜査を初めとして真実の公表等全面的に非協力で、腹立たしいことこの上なかった。河野家も遂に意を決し、九月二十六日遺骨の無いまま、僅かに大阪の住居の一隅にあった数本の頭髪と日頃使用したであろう化粧品等を骨壺に納めて、町長さん初め町内多数の方の御参列を賜り、又大阪市より上司、先輩、多くの同僚の方々の御会葬を忝うし、告別式を営み野辺の送りを済せたが、遺体も見ないままの葬儀を出すことは、弟夫妻にとって胸中の空しさは張り裂ける思いであろうと察した時、自分も思わず動揺し、代表しての挨拶も思うに委せず不調法で甚だ恥入った次第である。
 歳月は時を待たず、早や一周忌を迎える時期となった。今二七人の御家族を失われた方々には如何お暮しかと案じてやみません。
 即聞するに、遺族会と大韓航空株式会社間の物心両面に亘る話し合いは成立を見ず、遂に法廷の場に移ったとか、今度の事件は全く不可解なことばかりで、特にソ連は如何に領空侵犯をされたとは云え丸腰の民間機をミサイルを使用し撃墜したことは、人命は地球より尊しとされる世界人類の信念を逆なでしたもので、人道上からも絶対許せるものではない。ソ連の国民性の冷酷さを改めて見せつけられたが、なんと云っても他国の上空を二時間余りに亘って最大五〇○キロ米も侵入していた大韓航空機の責任は、理由の如何を問わず最大のものであると思う。前記した様に話し合いも実らず、法廷闘争と云う最悪の状態になっている様子だが、私は日本政府が国際間の問題としてどうして解決に力を入れてくれないかと遺憾に思っている。国内では、地震、水害等急変があれば災害救助法を発動して救援し、担当大臣、代議士等が陣頭に立ち救済処理をしているが、大韓航空機撃墜事件は寸時にして邦人二七人の尊い生命を失った大災害事件であり、特に相手が外国所在であるだけに民間団体の遺族会のみでは解決が長引き且つ困難であると思われる。適切な方法を講じ、バイブを通じこの大事件の解決に取り組んで貰いたいことの切なるものがある。
 遺族会の皆様どうか最後まで結束して、今も最果ての海底に眠る御霊が安じて昇天出来るまで頑張って下さい。
 皆様の御健康を心から祈り上げます。

    冷たいだろう
    耐えて静かに眠って下さい
    富子の御霊よ

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