Ⅳー4:広明と電話:川名まつ (川名広明祖母)
私には八人の孫がおりました。それぞれ順調に成長して、一番若い内孫の二人も教育の最後の時機まで来て、年老いた私には何より楽しみでした。
昨年六月中旬に、シカゴ大学に留学する外孫と一緒にエール大学へ行く事になった時、私は大変嬉しくて、二人の旅の無事を神仏に心から祈りました。
九月一日に突然内孫の広明を失ってしまい、それ以来私は悲しみの深い渕をまだ漂っています。去年の今頃広明が何をしていたか、などと事細かに思い出し、その間にあの稚内沖の暗い波間を思っては、ふびんでならない此の頃です。
私がアメリカ行きのお小遣いをあげようとした時、広明は、
「十分あるから、帰って来てから頂くよ。」
と笑顔で言いましたので、私は九月に下宿へ戻ったら部屋に電話をつけてあげると約束をしました。そして、
「二ヶ月半なんてすぐだから、おばあちゃん、元気で居てね。」
と言って、広明は出かけました。
その後、アメリカから電話をかけて来た時、
「おばあちゃん、元気?僕好きな物一杯食べて快調にやってるから、心配しないで・・・」と明るい元気な声で話しました。エール大学で親しくして下さったお友達から、
「おばあちゃんの事を時々話しましたよ。おばあちゃん子だったんですか?」
とあとで聞きましたが、広明はやさしい子でした。
広明は、私の主人が亡くなって一年半後に生まれ、二十年間を私は一緒に暮して来ました。限りなく沢山の思い出があります。それなのに今私がその孫の一人を失い、供養をする事になり、全く思いがけない悲しい辛いおもいです。寿命とあきらめ切れない残酷な死でした。殆ど毎日、家人が出掛けたあと一人になると、私は広明の写真に声を出して話しかけます。写真は広明の祖父の写真と並んで飾られています。
「お父さん、そちらでヒロちゃんを可愛がってやって下さい。」
とお願いする事からはじまって、
「ヒロちゃん、おばあちゃんは足が弱ったから、お迎えに来てくれたら手を引いてよ。」
「ヒロちゃん、うちの家族を護ってね。」
など、お友達の情報や犬の様子まで話しています。
電話ならば広明の返事も聞かれますのに、一方的に話しかけるのは空しく悲しいだけです。でも私は広明への電話のように、一生こうして話し続けることでしょう。
もう一度、夢でもいいから、広明の
「おばあちゃん。」
と言う、あのやさしい声を聞きたいのです。