Ⅲー4:山口正一君を思う:※※悦夫 (山口正一小学校担任先生)

 七月に入り、そろそろお盆を迎えようとしている。有為の若い人が不慮の出来事で逝去され、新盆を迎えるお宅へおくやみにあがるのは、なんとも心痛むことである。
 「栴檀は双葉より芳し」で山口正一君は小学校より優秀であった。ときには鋭い質問をし、またおどけた仕草で級友を笑わせるクラスでの人気者でもあった。彼は何時勉強するのかと思うほどよく遊んでもいたが、放課後ひっそりした校内の図書館で読書をしている姿をみかけたこともあった。色白で小ぶとりで、つぶらなまなこは愛くるしかった。水泳もじょうずだった。高専では彼の成績をみて大学への進学をすすめた。高専で彼と常に首席争いをしたO君はある一流会社へ入った。このO君は京大や一ツ橋の学生をおさえてトップで入社した。O君のライバルである山口君も入社試験では多くの受験者の後塵を拝さなかったと思う。彼はバイタリティがあった。努力家でもあった。会社でも将来を嘱望されていた。前途に洋々たる春がよこたわっていた。
 ところが昨年九月、大韓航空機のいまわしい事件が勃発した。「しまった。撃ったのは民 間機らしい。ジャージャー・・・・・・」ソ連の交信音である。
 おそらく機内はあと一時間もすればソウルへ着くといった平穏な空気につつまれていたろう。高度七、八千米から一万の上空は安定した飛行をするものである。山口君は安らかな眠りに落ち父母のことを夢見ていたかもしれない。奥様や子供のことを考えていたかもしれない。一家がしばらく会社の仕事でアメリカへ住むことについて思いをめぐらしていたかもしれない。
 この事件で松下電器でも片腕をもがれたほどの打撃である。有為の人の集りの松下でも今回のアメリカへの市場開拓は彼が最も適任者だった。アメリカ人とも極めてうまくいっていた。アメリカの友人達も啞然として葬儀にかけつけた。
 あとには奥様と五才を筆頭に三人のお子さんが残された。今おこなわれているのが自分の父の葬儀であることも知らず、葬儀場をあどけなく走りまわるお子さんが――。
 まったくの悲劇である。
 いにしえの奈良の都に今日も赤々と夕日が落ちる。この夕日を家族そろって眺める日を山口君にもたせたかった。悔んでも悔みきれぬ痛恨の出来事である。奥様どうぞ頑張って、元気で過してください。
 北洋の果てに散った山口正一君。心やすらかに北溟に眠り給え。こい願わくは風よ静まれ、 北溟の波さかまかず、山口君の眠りを覚ますなかれ。
   新盆を迎える一九八四年七月

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