Ⅲー3:中沢建志君との出合い:※※洋一 (逍遙美術会長)

 私が中沢君と初めて出合ったのは、彼が高三の時で、私が二十歳の秋だった。その頃、私は会社勤めにみきりをつけ、大学に進もうと独学で勉強をしていた。確か大学へ提出する書類の依頼に母校、港北高校に来て久し振りに美術部をのぞいた時だった。夕暮れの迫った美術室、誰もいないと思っていたその時、薄暗い部屋の隅で誰かが石膏のデッサンをもくもくと描いていたのだ。電気をつけていない部屋の中では、白い石膏だけが浮き上がる真では目についた。そしてそれをジッと見つめる彼の目付きは、なにか一種独特のするどさを帯びていて恐しさの様なものを感じさせられた。彼こそ中沢君であった。私が声を掛けると、ゆっくりとした口調で言葉少なく彼はポツリポツリと返事をした。そして美大へ進学したいと云う抱負を、私と初対面のせいかはにかみ乍ら語ってくれた。そうしているうちに部屋の中は暗さを増しデッサンができなくなった。その日のデッサンを終えて美術室の電気を初めてつけた。彼の座っていた席のまわりに無造作に散らかっていたバンクズがとても印象にのこっている。その日は彼と一緒に大倉山駅まで帰ることにした。後で研究所の先生に見せるのだと云って、中沢君は大きな厚いカルトンを小脇にかかえて私の横を駅まで歩いた。無口な彼であった。駅前まで来ると、私は彼と一緒に、今はその店もなくなってしまったが、アートコーヒーの立ぐいスタンドに彼を誘って入った。寒い日で中沢君が少し音をたて乍らコーヒーをうまそうにすすっていたのをよく覚えている。ホットドックにからしをたっぷりすり込んで彼はかじっていた。私は僅か乍ら退職金をもらっていたが、その時封筒の中から千円札を一枚抜き出した。もう中はカラッポで最后の一枚だったのだ。おごってもらったことを彼はなにかすまなそうな表情を私にみせたけれど、私が「また0からスタートするさ」というと、美術室で私に見せたあのはにかむような笑い顔をしてくれ、二人で不思議な位おかしくなって笑ってしまった。私の心象風景の中で、今も中沢君ははにかみ乍らデッサンを描いている様な気がする。
 中沢さんは港北高校の美術部の出身者で、ずばぬけた技量を有していて、デッサンを例にあげてみても、大変深く探求されたものを次々に描き上げておりました。美術の教師、そして一人の作家として、これから大いに飛躍することを期待されていた人物だったのです。志を途中にして逝ってしまわれた中沢建志さんの気持はさぞ無念であったろうに、と想像する次第です。中沢さんの死を悼み、安らかな魂のご冥福をお祈りいたします。

Follow me!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA