Ⅲー2:君は何を信じて……:※※保 (中尾修視・高校同窓生)
あの日からもう一年になろうとしている。高校時代の同期生有志達でつくり始めた文集「君は何を信じて――中尾修視君を偲びて」も、やっと最終稿が仕上がり、完成の日を待つばかりとなった。
中尾君と私とは、高校時代は共に陸上部で走り、自治会活動に精を出し、大学へ入ってからも、東京と神戸とで遠く離れてしまいはしたが、彼は帰阪の度に神戸の下宿を訪ねてくれて酒を飲み、語り明かしたものだ。しかし彼はあまり多くを語る人ではなかった。彼は一語一語に、そしてその間の沈黙の中にも精一杯自分を表現してくれていたに違いない。でも即物的人間である私は、彼の言いたいことをつかみきれず、不粋な問いかけをしては彼にあきれられてばかりいた。そんな時私は、「彼とは生涯の付き合いになるだろうし、そのうち彼が何を考えているのかしっかりとわかる日もくるだろう。」などと考えていた。しかしあの日、もはやそれはかなわぬこととなってしまった。
私達は文集づくりを始めた。「一体君は何を信じて生きてきたのか。そして生きていこうとしていたのか。」と問いかけながら。
約一年がかりで、度々有志が集まり、高校、大学時代の恩師や友人、塾の教え子達から寄稿を募り、それを読ませてもらった。友人達はちょっぴり煙たく思いながらも、確乎たる信念をもった彼の生き方に尊敬の念をもっていた。塾の教え子達は彼のやさしさを敏感に感じとり、深い敬慕の念をもっていた。私達は、時に「そのとおりだ」と頷きながら、又時に「へえ、そんな所もあったのか」と驚きながら編集を続けた。
又、御両親や弟さんさえまだ目を通していない彼の日記を、「中尾が帰ってきたら、『お前ら、勝手に何を読んでいるんだ。』って怒るだろうな。」と話しながら、何か罪に似た気持ちを感じながらも一ベージーページと読んでいった。そこには彼の苦しみ、悩み、喜び、希望がぎっしりと詰まっていた。私達は彼の生き方に同感し、又反発を感じながら読み進んだ。改めて彼の文才に感心したりもした。
そして完成を目前にした今、私達は中尾修視が確かに自分の心の中に生きているのを感じることができる。悩みにぶつかったときには彼に想談できる。彼はきっと何らかの方向を示してくれ、私達を元気づけてくれるに違いない。これからこの文集を手にされる人達の心の中にも彼は永遠に生き続けるであろうことを信じて疑わない。
この間、奈良のお宅におじゃましたり、編集に携わっていた仲間達と共に食事に誘っていただいたりして、御両親や弟さんと話をする機会が何度かあった。調子にのって一人前に偉そうなことを言ったりしたこともある。不謹慎なようだが、いつもいつも楽しく過ごさせて頂き、ついつい長居してしまって申し訳なく思っている。ただ本当に残念なのは、そこに中尾君自身がいないことだ。彼も一緒にいたら、やっとわかってきた彼の生き方に意見してやりたい、お父さんやお母さん、弟さんも交えて一緒にいろいろ言い合ってみたい。そうすればもう何倍も素敵なことかと、毎回毎回悔しい思いをしている。
毎年一回九月一日という日が巡ってくるのは辛いことだ。しかし、あの日の驚きと、悲しさ、悔しさ、怒りを新たに、一年めの九月一日を迎えたいと思う。