Ⅱー4:家族の死を活かす道:小林啓一郎(小林正一・郁子長男)
(一)大韓航空機撃墜事件の特異点
一九八三年九月一日に発生した大韓航空(KAL)機撃墜事件は、ソ連の領空を侵犯したKAL機を、ソ連がスパイ機とみなして撃墜したというものである。この事件と、他の航空機事故との一番大きな違いの一つは、事件の背景に、米国・ソ連を中心とした東西両陣営の、軍備拡大競争による緊張関係が存在していたということである。そこでここでは、このような、事件の背景について少し考えてみたい。
本論に入る前に一寸触れておきたいのは、あの地域の軍事緊張には、米・ソ両国のみでなく、日本も関与しているということである。私が忘れられないのは、昨年(一九八三年)一月、中曽根首相が米国でのレーガン大統領との会談の中で発言したとして報道された、いわゆる「三海狭封鎖」「日本列島不沈空母」発言である。邦訳に問題があるとしても、これらの発言、特に前者がソ連をいかに刺激するものであるかについて、当時大いに物議をかもし たことは未だに記憶に新しい。あの地域の軍事的緊張を十二分に知っているはずの首相のこの発言は、とても不用意で済まされるものではないと思うし、ひょっとすると、あの発言さえなければ、今回の事件でも最悪の事態だけは避けられたのではないか、とも思えてくる。ただしこのことは、直接の当事者であるKALの責任や、ソ連の撃墜行為を容認することでは断じてない。
(二)戦いの歴史的過程
個人としての人間は、どこの国でもみな平和を愛する人ばかりであろう。それなのに、何故に人類は「紛争の解決方法」として戦いを繰り返してきたのであろうか?人間集団の形成 の歴史の中で考えてみよう。
太古、人間は少人数の集団を作ってほら穴等に住み、動植物を取って生きていたであろう。人口増加によって、食物等についての「縄張り争い」から集団間にもめごとが発生し(これは彼らにとって、即、死活問題だったはずである)、おそらく話し合いをすることを知らなかった彼らは、戦いによって無理矢理解決させたのであろう。日本で考えてみるなら、この繰り返しの末に豪族ができ、七世紀には国家のようなものができた。その後千年経ち徳川幕府ができるまでは戦いの時代が続き、次第に激しい戦いがなされてきた。ごく初期の戦いは、自分達の生命を守るための要素が大きかったであろうが、次第に征服欲・権力欲が原因となってきたように思える。
大陸では、数千年前から広範囲な戦いがなされてきたが、日本を含めた地球レベルでの戦いは二十世紀に入ってからである。この問武器も徐々に発達したが、第一次大戦までは、人類全体の種としての生存を危うくするようなものはなかった。しかし第二次大戦において原子爆弾が使用されて以来、その後四十年間の武器発達の経過は指数関数的な勢いである。水爆等も発明され、原子核反応の放出するエネルギーを人類殺傷に用いる技術は、電子技術の発展とあいまって、とどまるところを知らぬかのようである。
現在では、超大国の軍備は核兵器を中心とした体系でできており、また核兵器非保有国もその多くが東西両陣営のどちらかに組み込まれていることから、世界的に見ても、現在の軍備は核兵器を中心として組み立てられていると言える。
現在地球上のあちらこちらで戦争が行われているが、これに米・ソが直接参戦し、米・ソ間の衝突になった場合どうなるであろうか?「限定戦争」という言葉もあるが、相互不信・疑心暗鬼の戦争状態ではこれが守られるとは考えにくく、全面核戦争になる可能性が大きい。全面核戦争になった場合、先日のNHKテレビで放送された「核の冬」等からも、直接戰場にいなくても、人類は死滅すると予測されている。それゆえ、今や、戦争は国と国との間の紛争の解決手段には全くなりえないのである。人と人との殺し合いという意味からも戦争を存認することはできないが、このような点からも、戦争をすることは愚かな行為なのである。
(三)軍備の自己增殖性
次に、軍備そのもののもつ危険な自己増殖性についても考えておく必要があろう。軍備とは、戦争をした時に相手を倒し、勝つためのものであるからして、より強力で有効な兵器を作り出さねばならない。そのため、一旦自国で最新兵器を作り上げると、同じものを仮想敵国が作る前に、更に強力な兵器を作らなくてはならなくなる。
また仮に、軍備は「力の均衡による平和」を保つためのものであり、勝つためのものではない、という主張を認めたとしよう。しかしながら、この場合でも事態は先と全く変わらないのである。つまり、「敵国がどんな兵器を持っているかわからない」のであるから、結局は「力の均衡」を保つためだけにでも、自国の科学技術の総力をあげて新兵器の開発をしなくてはならなくなる。
つまり、一度「軍備」、「力の均衡による平和」という考えを認めてしまうと、認める程度によらず、結果は全く同じことになってしまうのである。
(四)核兵器誤使用の危険性
次に、人類が現実に核兵器体系にいることの危険性について考えてみよう。意図的に核戦争をおこす場合は別として、ここでは、誤りによる偶発的な核戦争の可能性について触れてみたい。
一見平和なような現在でも、米・ソ間の軍事緊張はかなりのものであり、はからずもそのことを昨年の事件が物語っていることは何とも皮肉な話である。その緊張が、何らかの原因 によって異常に高まった場合を想定してみよう。そうなると、米・ソの首脳は、相手が自国を攻撃してくることを警戒するであろう。この場合、もし本気で戦い、相手に勝とうと思っているなら、第一撃は核ミサイルで相手国の核基地を攻撃する可能性が大きい。核による報復を防ぎ、かつ相手の戦闘能力を激減させるためである。このことは両国ともよく知っているから、特に核ミサイルの飛来を警戒することになる。それゆえ、もし相手がミサイルを発射したらすぐにそれをキャッチして、自国も報復発射する態勢になっている。そこへ「発射」という誤報が入ったとしよう。緊張状態には誤りはつきものであり、膨れあがり易い。現在の中距離ミサイルは、わずか数分で相手国に届くと言われている。そうなると、誤報かどうか確認していては間に合わなくなる。しかもこのような極度の緊張状態において、人間がどのような心理状態になるかまったく予測がつかない・・・・・・。このような経過で全面核戦争になったとしたら、それは何という悲惨な恐ろしいことだろう。
しかもその場合、日本にアメリカの核ミサイルが存在する「可能性」がある場合、ソ連はどうするだろうか?また、ソ連の核ミサイルが配備されている可能性のある国に対してアメリカはどう対処するだろうか?
(五)軍縮のみが家族の死を活かす道
これまでのことから、「力の均衡による平和」の存在を一旦認めると、核戦争に至る可能性がかなり大きなものとなることになる。ということは、「力の均衡による平和」が存在することはありえない、ということを意味しているのである。現在、一見均衡が成り立っているかのようにも見えるが、実際には複雑なシーソーゲームの繰り返しにすぎず、徐々にその均衡点らしきものがエスカレートしており、危険な方向に進んでいるように思えてならない。
「力の均衡による平和」が本質的にありえないのなら、核兵器に代表される軍備を縮少してゆくしかないことになる。これはそんなに容易なことではないかもしれない。しかし、本当の平和というものがそちらの方向にしかないものであるなら、その方向へ向って、見せかけではない、最大の努力を払わなくてはならないのではないだろうか?また、このことこそが、あのような場で死んでいった我々の家族の死を活かす、唯一の道なのではないだろうか?
諸賢の御批判・御叱正を期待します。